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(一九)高渚寺址

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 【所在異説】行基開創と傳へてゐる高渚寺は堺の南方にあつた事だけは認められるが、其地點は明瞭でない。或は北半丁字高須(泉州志)或は南高須と稱した南旅籠町乳守遊廓附近と云ふのは(和泉志、全堺詳志)何れも地名から來た推察に過ぎない。【高渚寺清淨土院】元來高渚寺は續日本紀光仁天皇寶龜四年十一月の條に初見し、行基年譜には其事を記さず僅に清淨土院(高須塔十三塔)和泉大鳥郡葦田里にあり今□穴鄕とあるのみである。所謂清淨土院高渚寺とが別寺か同寺かは硏究する餘地はあるが、清淨土院に高須塔と註し、清淨土院を記した行基年譜に高渚寺を記さないのは同一寺院を一は地名、一は寺名に據つたのではなからうか。若此類推が比較的正しとすれば、高渚寺の所在は清淨土院の所在を知れば足るのであるが、同院の所在は行基年譜の□穴鄕とある外に根據がない。□穴鄕は恐らく和名抄に見えた鹽穴鄕で德川時代の南庄、或は湊村に當り(泉州志)今の大小路以南の區域であつた。此區域中堺變遷の迹に徵すれば、東南方往時の海濱近き高渚にあつたのであらう。此推察によれば元和以前堺の東南に當り且一部は堺南庄、一部は湊村に跨つてゐたところと考へられる。斯くして元祿二年堺大繪圖の東南高須町は其舊地であるとの説も成立するが、直に斷定すべきものではない。唯町名の類似からして舊高渚の名を傳へた別地であるとの解釋位は免さるべきであるかも知れない。