大内義弘戰死址として傳へてゐる所は三箇所ある。【所在異説】(一)は西湊町本行寺(二)は妙光寺舊址であつた南旅籠町東二丁(三)は舊向井村字中筋に當る安井町である。其由來する所(一)は義弘戰死後里人之を憐み、竊に遺骸を埋めて記念の爲めに三樟樹を植ゑ、後其地に妙像院日后本行寺を建て、同寺三世日是義弘追福の爲めに元祿八年妙見堂を建てたと傳ふるにより(二)は義弘戰死後今の南旅籠町東二丁に生前建立した妙光寺乾の方へ祕かに石棺を葬つたが後荒廢に歸し、元和後南旅籠町東三丁の現在地へ移轉するに及んで所在を失ふと云ひ(堺大觀)(三)は安井町に近世迄義弘戰死の碑があつたと傳へたのによる。(堺大觀)以上三説は何れとも定められないが、俗説には本行寺説が有力で、妙見堂及び墳墓の傍に植ゑた老樟樹は今に傳はつてゐる。思ふに義弘最後の戰場は堺の北方より攻寄せた幕軍に對抗したのに(應永記)徵する時は北方に近い安井町に當る中筋説が首肯すべきやうである。【大内義弘の首塚傳説】又菅原神社境内東南隅の一小丘を義弘の首塚と稱してゐるのは別に根據のない傳説である。