ビューア該当ページ

(六)土佐藩十一士墓

809 ~ 810 / 897ページ
 【所在】明治元年妙國寺事件に坐して割腹した土佐藩十一士の墓は宿屋町東三丁寶珠院内にある。同院は宿屋、材木兩町の境筋を東へ三丁北側に所在してゐる。【墓地】寺門を入れば正面本堂の東側が墓地で、東北二方は土塀を、南は石玉垣を以て境界とし、石玉垣中央に出入口を設け、其南方に石鳥居がある。墓碑は初め藩主山内豐範によつて建てられ、其後助命せられた土居八之助が修復を加へたもので、東西四間三、南北四、高さ二四寸の二重臺石の上に高さ一五寸内外の石碑十一基を建てられてゐる。順列は箕浦猪之吉を東端とし、柳瀨常七を西端としてて一列に並び、南を面とし、正面には戒名、側面には俗名を記してゐる。

第百三十二圖版 土佐藩十一士墓

 
 

   戒  名         俗  名
文義院忠深元章居士     箕浦猪之吉
義行院忠現氏同居士     西村左平次
忠法光則居士        池上彌三吉
忠山良信居士        大石甚吉
忠岳義長居士        杉本廣五郞
忠速稠迅居士        勝賀瀨三六
忠英利雄居士        山本((イ哲))銕助
忠學重正居士        森本茂吉
忠固堅勝居士        北代((イ健))堅助
忠應樌成居士        稻田((イ之有))貫丞
忠相義好居士        柳瀨常七
 

 俗名の傍註は墓碑に彫刻してゐるのではないが、十一士關係の記錄に見えたものと對照したのである。【橋詰愛平墓】又別に十一士墓碑の西側臺石の傍に高さ一五寸内外の一墓碑が建てられ、面に橋詰愛平紀有道と刻してゐるのは同事件に已に自害の座に直つて事中止された爲め助命された同人の墓表で、同人は後明治二十三年憤死したのである。
 墓地石玉垣の前西方には忠烈碑東方には佛蘭西兵士之碑がある。【忠烈碑忠烈碑は高さ二の臺石の上に建てられた高さ四、幅最長三の楕圓形の花崗岩で、土居八之助の建つる所である。

「鳴呼忠烈碑
 泉之妙國寺爲土佐藩十一殉國之地其忠憤義烈既燿于史簡土居翁盛義其死友也
 深慨毅魂之不祀或著傳紀作院修墓碣而竭心力者幾乎三十餘年矣子爵谷干城君
 亦義之假力遺蹟之顯著由此己頃翁更樹碑以慰精靈題曰鳴呼忠烈碑予乃作銘
  鳴呼忠烈  神其在玆  殺身殉國
  式護皇基  死友之義  勒石傳之
 明治癸卯土佐滄宇田友譔幷書」
 

 【佛蘭西兵士之碑】佛蘭西兵士之碑は大正六年弔魂會の手で建設せられ、高さ三の臺石の上に建ち、西面の碑石高さ三九寸、幅二五寸を有し、碑面に「佛蘭西兵士之碑」と記し、背面に左の文を刻してゐる。

「爲戊辰殉難佛蘭西海軍少尉候補生シヤール、ピエール、ギヨーン外水兵拾名
 大正六年五月                     弔魂會建之」
 

 又十一士關係の遺物は本堂の寶庫内に保管せられてゐる。