天保七年の飢饉に際し窮民救濟の土木事業として築造された御蔭山は、茶粥、困窮、天保、小硯、筑波山などの別名を有し、【所在】大濱北町及び大濱通三丁目に跨る南海鐵道西側にあつた。【山容】丘地の境域は天保九年御蔭山の北、住吉橋筋に假橋を架したとあるから(新地方日記)今の菱橋(所謂假橋)西詰南側が北麓であつた。[嘉永改正]堺大繪圖には明瞭に今の菱橋西詰以南、南海鐵道大濱橋筋踏切に至る旭川沿ひに弓形の山を記してゐる。丘地の高さ南側九間四尺、北側九間二尺、惣廻り、百七十四間であつた。(新地方手覺)初め、頂上に鎭守として住吉大明神、金毘羅大權現、稻荷大明神を勸請した旭社があり、後旭地藏を祀つた小堂が出來、開口神社の御旅所もあつた。(嘉永改正堺大繪圖、堺大觀)【名所となる】此地海濱に近く、眺望に適した爲め、何時しか名所となつて風流の客を迎へた。幕末の儒者廣瀨旭莊の如きは頂に攀ぢて「春色自東來、鄕心向西去、雲濤無際涯、目斷鴻沈處」と吟じ望鄕の念を慰め、或は亦「至頂上、四望晴、煙浮合霜樹如春」と稱贊したこともあつた。(梅墩詩鈔、日簡瑣事備忘)次いで同七年(安政元年)の震災及び海嘯記念として神明擁護璽を丘上に建て、後大濱公園へ移した。丘は明治に入つて次第に崩壞し、【舊址】旭地藏は新在家町東三丁發光院へ移り、更に南麓は同二十九年大阪窯業株式會社敷地の一部として削平せられた。此後殘るところも悉く壞れて平地となり、住宅地として大濱北町に屬し、一部は工場敷地となつて、大濱通三下六番地[合名會社]平野護謨製造所堺工場となつた。現在南海鐵道大濱橋筋踏切西詰に舊址の標石を建てられてゐるのは其南麓に當つてゐる。