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(七)堺奉行所址

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 【所在】堺奉行所は殿馬場を挾んだ車、櫛屋兩町の東一丁、同二丁に跨る區域であつた。奉行所は奉行、與力同心の兩屋敷から成立した爲め、舊址も自ら兩者に分たれてゐる。
 【奉行屋敷址】〔奉行屋敷址〕 德川幕府の奉行所は前代の位置を代へず、引續いて東之町に存し、元祿二年の堺大繪圖によると同町殿馬場の西側南寄東面に記され、表七十三間(新間七十九間三七寸五分)であつた。次いで元祿八年には東側七十四間、西側八十六間、南側六十一間、北側五十四間、總坪數西側與力同心屋敷を合して五千百六十二坪を有し、單に西御役屋敷西屋敷役屋敷とも呼んだ。(攝泉境小鑑錄、堺御役屋敷繪圖)此舊址は現在の堺市役所及び堺區裁判所南方の一部に當り、表門は堺區裁判所正門の畔、【御成門御成門は堺市役所表門の畔にあつた。御成門德川秀忠、同家光、兩將軍來堺に際し使用した門で、明治維新當時には黑塗であつたといふ。(古老聞書)奉行所は表、奧に二分され、表は奉行の公務を執る所、奧は奉行常住の所である。其奧向の庭園にあつた稻荷神社は天白稻荷として知られてゐた。
 【與力同心屋敷址】〔與力同心屋敷址〕 屋敷は殿馬場を挾んで東西にあつたが、後車之町東三丁へも屋敷を置くに至つて東、中、西の三屋敷となつた。東屋敷は牢屋敷の南、元祿當時の北本鄕端鄕屋敷に置かれ、現在の車之町東三丁に當る。中屋敷は東屋敷の出來る迄は東御役屋敷と稱せられたもので、殿馬場尋常小學校、堺高等女學校敷地西方は其舊址である。西屋敷は殿馬場の西、奉行屋敷址の北で、今の堺區裁判所の一部及び私立堺高等愛泉女學校に相當する。各屋敷の境域は東屋敷は不明であるが、中屋敷は南北百二十七間半(新間百三十八間七寸五分)東西十七間(新間十八間二五寸)を有し、西屋敷奉行屋敷を合して五千百六十二坪であつた。(攝泉境小鑑錄、堺御役屋敷繪圖)