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(一五)枸杞園址

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 【所在】趙陶齋の寓居枸杞園は櫛屋町西二丁にあつた。陶齋の在堺年代は晚年十餘歳で、其間時に但馬其他へも出掛けたが、多くは此處に在住し邸内に枸杞を植ゑて園名とした。(息心隨筆)日簡鎖事備忘(安政四年八月十八日條)に戎嶋の大師橋南詰西方に於て簇々たる枸杞ありと記したのを併せ考へると、櫛屋町濱側から戎嶋の間は此木の生育に適してゐたのであらう。枸杞は枸杞屬の落葉灌木で山野に自生し、幹の高さ三、四乃至一丈に達し、長楕圓形の葉を具へて互生又は叢生し、夏日葉腋より淡紫色の花を咲かせて卵形亦色の小漿菓を結び、菓實は其葉と共に藥用にも用ひられてゐる。【規模】園は元來具足屋次兵衞が櫛屋町濱の別墅を陶齋の爲めに他の門人等と共に修覆したもので、表は板塀を圍ひ、内は大部分を畑とし建物は五室であつた。室は一は來客用、一は翰墨の諸用と息心常座の間とし、一は書籍、四時の葛裘臥具を收め、一は隨侍の者の間、一は臺所とし、其總疊數三十疊敷であつた。(息心筆記)畑は所謂庭園で、其西北隅の圖として、息心漫筆に(宿院町西二丁米谷甚三郞氏所藏本)園中の圖を揭げ、圖中池の右上に「此所土地スコシ高クシ平ヒラカニ小石ヲ一面ニ」と記してある。小石は年々拾ひ集めたものを大石に交へて茶甁、茶碗などが据えられる程度に敷き詰めてゐた。又屋敷の構は南を受けて西を塞ぎ、以て四時晴天の閑暇には讀書に親しむるよすがとした。陶齋此園を愛し、單衣の頃には圓座を敷きて自由に園内の雜草を採り、或は石榴瘡に惱んだ頃にも漫步を樂みとした。(息心隨筆)【枸杞翁】元祿二年の堺大繪圖櫛屋町濱にある具足屋治兵衞七箇所の掛屋敷中何れが枸杞園となつたか、又何れが陶齋當時の具足屋治兵衞の所有として傳つたかは不明であるが、【舊址】右七箇所は總て戎小公園の區域内となつてゐるから、同公園の中に舊址を求むべきである。

第百五十圖版 息心筆記

 
 

第百五十一圖版 息心漫談