ビューア該当ページ

(四)七道

889 ~ 890 / 897ページ
 地名傳説中諸説紛々として由來する處不明でありながら、人口に膾炙したものは七道である。【地域】現在七道の名を存するのは東西兩七道町のみであるが、以前は此兩町の以南に當る北半町、南旅籠町の西方をも稱し、今に其俗稱を殘してゐる。【傳説】七道の地名傳説については次の諸説がある。
 (一)高渚寺の七堂伽藍があつた爲め。(和泉名所圖會)(二)朴津寺七堂伽藍が洪水によつて此濱へ流失した爲め。(全堺詳志)(三)住吉の神輿舁が身を淨めんとして此濱で七度の潮垢離を行つた爲め。(堺鑑一説として載す)(四)何れの時か不明であるが胴が七つに分れて四天王の影像浪に漂ひつゝ此濱に着し、之を舊の如く繼いだ爲め。(堺鑑
 右四説中最も知られたものは(一)説で、七道の文字を多く七堂と記したのも其爲めである。然し此説は傳説の根幹をなす高渚寺の所在地が市の北方(高渚寺址參照)ではなかつたから否定すべきである。次に有力なのは(三)説であるが直に之に起因したとは斷言出來ない。他の二説に至つては取るに足らない爲め、要するに其起因には根據となすに足るものがないのである。
 【舊蹟】此地には德川時代七堂三味(四所三味址參照)御仕置場(御仕置址參照)鐵砲射的場鐵砲射的場址)等があり、【七不思議】古來七道七不思議とて五色の鮒、片目の蟹、片葉の蘆、日のてらぬ所、雨のふらぬ所等以下七つの不思議を傳へてゐた。