開拓時代の札幌にはこんこんと水の湧き出す泉が一三カ所もあったという(図9)。泉はアイヌ語でメムとよばれており、アイヌの人びとの生活を豊かにうるおしていたにちがいない。これらの泉のうち、あとあとまで人びとの眼をひいたのが、北二条西一六丁目知事公館や北五条西八丁目伊藤義郎邸の庭園、北八条東一〇丁目サッポロビール工場裏などである。明治初期には、これらの湧泉までサケが遡上したといわれている。また、その頃には、豊平川から分流した鴨々川は、いったん、扇状地の地下へ伏流して伏篭川の水源となっていた。このように、昔は豊平川から分流した小さな清流が網目状に扇状地を流れ、豊かな地下水を養い、湧泉をもたらしていたのである。しかし、開発が進むにつれ、豊平川の河道も改良され、下流部では捷水路で石狩川へ排水されるようになった。また、河床の砂利採取なども手伝い河床面が低下し、加えて、工場、ビルなどでの地下水利用が盛んになったことで、扇状地の地下水面は急速に低下していった。そして、泉は涸渇してしまったのである。とはいえ、札幌扇状地は、いまなお、札幌市の水がめとしての大きな役割を果たしている。扇状地に水が豊富な理由は、扇状地を構成している砂礫層にある。砂礫層は非常に水とおしのよい地層であるが、その下部に粘土などの不透水層がある場合は、滞水層となるのである。計算によれば、札幌扇状地の地下水包含容量は三億トンと見積もられ、それは雨竜ダムに匹敵する容量なのである。
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図-9 札幌扇状地の古河川図とメムの分布 |