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最終亜氷期の石狩海岸平野

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 最終氷期最盛期の最寒冷期(二万年前~一万八〇〇〇年前)における海水面の低下量は、一〇〇メートルとも一四〇メートルともいわれる。したがって、当時の海岸線は現在よりはるか沖合に後退し、現在の石狩川河口付近も内陸域だったことは容易に推定されるであろう。しかし、実際に当時の海がどこまで後退し、内陸域がどんな地形をしていたかを知ることはきわめてむずかしい問題である。だが、近年、海岸平野の地下や浅海底の地質調査が進み、低海水面期の状況を探る新事実が公表されるようになってきた。
 石狩海岸平野においても、大規模な開発事業にともなう地下水調査・基礎地盤調査・環境保全や公害防止を目途とした地盤沈下観測や地下水位観測などの調査によって、いろいろな新しい事実がわかってきた。なかでも、昭和四十五年(一九七〇)以来、札幌市、北海道立地下資源調査所、石油資源開発株式会社などが進めてきた地下水位観測井のボーリング調査では、理工学的な研究だけでなく、地質学および古生物学(貝類・花粉・珪藻化石)的な検討、さらに14C年代の測定もなされ、石狩海岸平野の地史を解明するうえで多くの資料が提供された。それらの資料をもとに、地下に埋れた古地形や地層のようすを探り、最終氷期のできごとを掘り出してみよう。
 およそ二万年前の最終氷期最盛期の最寒冷期には海水面はどれくらい低下し、石狩海岸平野はどんな地形をしていたのだろうか。
 石狩湾新港建設に関連する地下水調査のため、海岸に沿って四本のボーリングがなされた。図12はこれらのボーリング資料にもとづいて画いた地下の地質の状態である。この断面図で注目したいのは、第一地点と第二地点にみられる標高を異にした礫層である(図13の柱状図参照)。第一地点の礫層は、海水面下三三~三九メートルにあり、礫層を構成する礫種は粘板岩・チャート・硬砂岩など樺戸山地や夕張山地に分布する岩石である。礫の直径は一~二センチメートルで亜角礫が多く、シルト分の多い粗粒砂で充てんされよく締まっている。これに対し、第二地点の海水面下五三~五九メートルにある礫層は、安山岩やプロピライトなどからなる。それらは豊平川や発寒川上流の山地から供給されたものである。充てん物は粗粒砂で、それほど締まっていない礫層である。この事実は、これら二つの礫層が一連のものではなく、異なった時期に異なった河川によって、それぞれ運搬されてきたものであることを示している。また、第一地点では、柱状図からもわかるように、海水面下五〇~六〇メートルの層準には第二地点の礫層に相当するものはなく、海生の貝化石を含む砂層となっている。このことは、第一地点の礫層は、第二地点の礫層が堆積した谷によって切られていることを示すものである。つまり、浅いところにある第一地点の礫層の方が古い時期の堆積物なのである。

図-12 石狩海岸沿いの地質断面図


図-13 分部越と花畔のボーリング柱状図

 では、第二地点の礫層が堆積した谷は、いつ形成されたものなのだろう。第二地点の礫層の上位には砂とシルトの互層があり、その中に泥炭層がはさまっている。この泥炭層の14C年代値が約一万五〇〇年前を示すことから、砂とシルトの互層は最終氷期末から完新世にわたるものであると考えられる。すると、第二地点の礫層は、最寒冷期(約二万~一万八〇〇〇年前)の海面低下によって形成された谷に堆積したものと考えてよい。すると、第一地点の礫層が当時の河岸段丘礫層だったこともわかるであろう。
 この二地点のボーリング・コアの検討結果にもとづき、他地点の資料を再検討し、平野の下に隠された二万年前ころの古地形を画いたのが図14である。

図-14 石狩海岸平野の古地形

 この図からもわかるように、二万年前の寒冷期には、古石狩川古豊平川古発寒川などの谷には三~四段の段丘地形がみられ、西側には古三角州台地(次節参照)が広がっていたのである。そして、いちばん低い谷底は現石狩川河口付近で、海面下六五メートルである。しかし、その谷は、当然、現石狩湾の沖合まで延びていたのである。