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古石狩湾期(一万年~七〇〇〇年前)

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 石狩海岸平野の晩氷期(一万四〇〇〇~一万五〇〇〇年前)以降の堆積物の層序や特性は、前節までに述べたようなものであるが、それらをもとに完新世(一万年前~現在)の地史と古気候などを表1のように総括する。まず古石狩湾期のようすである。

表-1 完新世の地史総括表

 晩氷期から気候の温暖化によって浸入をはじめた海は、完新世の初頭には、現海面下三〇メートル付近まで上昇し、現在の平野は次第に海におおわれてきた。
 江別市角山におけるボーリング・コアの花粉化石の研究によると、完新世に入り一万年~八〇〇〇年前には、晩氷期を通して山地へ後退した針葉樹にかわって、台地や低地では温帯性広葉樹のクルミ属が侵入し、氷期から残存していたカバノキ属・ハンノキ属とともに優勢な広葉樹林が展開された。これらの樹種は、河川の氾らんなどで植生が破壊されたあとに最初に侵入するものであることから、海面の上昇と気温の温暖化にともない古石狩川流域では土砂が堆積したことを示している。海の浸入は、一時的に停滞していたようである。

図-9 石狩平野における完新世の化石花粉群集と森林の変遷

 約八〇〇〇年前ころになると、気候の温暖化は急速に進み、コナラ属が急増してクルミ属やカバノキ属と交替した。以後、約三〇〇〇年間はコナラ属とエゾマツあるいはアカエゾマツが交互に増減を繰り返しているが、全般的には温暖な時期であった。それに呼応し、海も内陸へ深く入り込み、江別市街地付近まで到達した。古石狩湾が形成されたのである。そして、その海底には暖流系のサルボウなどの貝類が生息し、また、静かに泥(上部西浜層)も堆積していた。このような泥が堆積する内湾環境を復元するのには、現在の石狩湾のどこかに、何らかのバリヤーを想定したいのであるが、それを実証する現象はみつかっていない。
 いっぽう、古石狩湾の南部に展開していた台地(月寒台地を中心とした東部台地群)には、一万年前ころから石刃鏃文化とかかわっていたと考えられる人びと、そして、それに続く縄文文化の初期の人びとが、確実に住みついていたのである。かれらが残した貝殻文土器の紋様に使用された貝殻は、七〇〇〇~八〇〇〇年前の古石狩湾から採取したものであろう。
 豊平川や発寒川は季節によって濁流が大量の土砂を運び、それらを流域に堆積させ扇状地の形成を続けていた。しかし、平岸面はすでに、その濁流の影響をうけない高さの河岸段丘状の地形を呈していたのである。