昭和に入ると札幌およびその周辺でも発掘調査が多くなってくる。
それは昭和六年初夏、当時山鼻小学校の教員であった後藤寿一が、江別市江別兵村(当時)の旧豊平川の河岸段丘上で、いわゆる「北海道式古墳」を発掘したことに端を発する。この墳墓は直径三~四メートルの円形もしくは楕円形の土盛りをもち、その下に深さ三〇~八〇センチメートル、長さ二~二・五メートル、幅六〇センチメートルの墓穴が掘り込まれている。副葬品としては、毛抜形刀、蕨手刀、勾玉、耳環などが出土した。この年に発掘された一六個の墳墓の報告は、翌七年「古墳の発掘について」と題して後藤によって報告された。この江別遺跡群の調査は、その後、高倉新一郎、河野広道、名取武光らの共同調査として続けられ、わずか四カ年の間に一四本もの報告や論考が生み出される。これは、まさに、北海道考古学の新しい夜明けといってもよかった。