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モヨロ貝塚と江別の遺跡

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 本州ではすでに明治時代から石器時代人骨の研究が行われていたが、北海道で先史時代人骨の研究報告が最初に現れるのは昭和期になってからである。
 昭和六年に京都大学の石澤命達が「北見国網走町アイヌ地貝塚出土の石器時代人骨に就て」という論文を人類学雑誌に発表している。しかし、アイヌ地貝塚というのは、実は網走貝塚(現在のモヨロ貝塚)の誤りで、人骨は論文中の写真や計測値をみると明らかにオホーツク文化期のもので、厳密にいえば、石器時代人骨というのも誤りである。昭和八年には河野広道が、「北海道江別町円形竪穴式墳墓発見の石器時代人一頭骨とその埋葬状態」と題する論文をやはり人類学雑誌に発表している。この人骨は、今でいう続縄文時代後北式文化期のもので、大変貴重な資料であるが、残念なことには、頭骨の顔面部を欠損している。この論文には、人骨の計測値ばかりでなく、墳墓、埋葬状態、副葬品についての詳しい記載もあり、当時としては大変優れた論文であった。
 その後、古人骨に関する研究報告は一旦とだえるが、昭和十六年になると、網走郷土博物館の米村喜男衛と北大解剖学教室の手で、北海道はもとより、日本の人類学史上画期的な発見がなされるのである。一五〇体にもおよぶモヨロ貝塚人の発見である。土器、石器、骨角器のほか、人骨の埋葬状態等の文化的側面も、それまでに知られていた北海道の先史文化と異質であったばかりでなく、人骨の形質もまったく特異なものであった。モヨロ貝塚人の形質については、昭和二十三年、児玉作左衛門が著書『モヨロ貝塚』において、また同じ年、伊藤昌一が『北海道モヨロ貝塚人頭蓋骨(とうがいこつ)について』と題して第五十三回日本解剖学会総会で報告している。伊藤昌一の講演抄録の末尾には、「北海道の北部沿岸地方には、日本石器時代人、現代日本人、アイヌ等とは著しく異なった種族が嘗(かつ)て住み、貝塚を形成しておったのである」と記されているが、この結論は今日においても、何ら修正を必要としない。