享保二年(一七一七)の幕府巡見使の編になる『松前蝦夷記』には、
一 | 蝦夷地エ志摩守手船年々商ニ差遣候場所幷船数 |
石狩 そうや きいたふ くすり あつけし のつしやむ 右六ケ所 | |
船数六艘 [三百五拾石積以前ハ八艘ツヽ差遣し候得共近年減之由] | |
近年減申候ハ蝦夷地よりも出物減ク相成申故前々之通船数遣し候へ共夫程代物替物無之、夫ゆへに六艘ツヽに相成申候。右之外之蝦夷地エハ家中商売舟又は諸国之商売極りたる船段段差遣し申候よし、積参候物末にしるし置、金銀銭之売買ハ曾て無之不残取かいものにいたすよし |
とある。藩主は以前は八艘の手船を出していたが、今は六艘に減らしアイヌと取引しており、しかも近年は出もの少なく、なお状況がおもわしくないので、財政を補うために運上金を取って、支配所持や商人に秋味などの交易船の請負を認めるに至った。