蝦夷檜山伐木事業を一手に支配していた飛驒屋久兵衛の元使用人南部屋浅間嘉右衛門(安永八年、徒士格勘定下役に任じられてから浅間嘉右衛門と名乗ったという)は、安永八年、藩主松前道広に取り入り、飛驒屋のソウヤ場所を奪うための工作をし、ついに同年松前藩よりイシカリ秋味支配を自分の手中に納めてしまった(熊野屋忠右衛門前々由来書)。しかし、翌九年、飛驒屋が嘉右衛門の不法について幕府に公訴状を提出して公訴したため、天明元年(一七八一)に本獄舎入りとなり、死罪を申しつけられた(武川家文書 安永亥年訴訟書留帳)。イシカリ場所との関わりはきわめて短い。