近藤重蔵ら一行は、九月二日イシカリを立ってリシリ島目指して北上した。同十四日にバッカイベに到着、ここでリシリ島に渡るために日和待ちするが、波が高く渡海をあきらめ、十九日ソウヤに到着した。ここで再び見分の状況を用状にして遠山景晋宛に出している。九月二十一日付の草稿の内容は、①リシリ島渡海をあきらめたこと、②西地の山越道にテシオ越え、シャクマ越えがあるが、帰路確認のこと、③西地警固の者の配置場所としては、ソウヤのほかはタカシマ、オタルナイのみと思われること、④ソウヤでカラフトアイヌに会ったが、異国船乱暴以後特に異変はないこと、⑤津軽家の警固人数は、ソウヤに二〇〇人、シャリに一三〇人いる、といったものであった。
ソウヤよりの帰路は、近藤重蔵は一行の二人と別れ上下五人とともにテシオ川を遡り、イシカリ川上流へ出るコースをとっている。『近藤重蔵遺書』の中にある『天塩川筋図』および『石狩川筋図』が、この時の麤(そ)図にあたるものと思われる。『天塩川筋図』は、十月二日の「川ノ惣名テシウ」に始まり、十月十日の「ノカナン」にいたるテシオ川の支流、中洲、両岸の状況、集落等を記している。続く『石狩川筋図』の方は、テシオ川からシオカリ峠を越えてイシカリ川へ出てからで、十月十二日の「タナシ山高凡十丈」に始まって、同十三日の「ヒビ発チユクベツ泊番屋」で終わっている。
チュクベツ番屋から下流については、残念ながら図面は欠くが、のちの記録に「イシカリ河原ヨリ深山幽谷数十里ノ間、是迄人跡無之処へ雪野ニ宿り山越仕、アムタレト申大難所ニテ破船覆溺ニ及ヒ、御朱印迄モ水中ニ濡レ候程ノ次第ニテ、数日粮米ヲ絶魚食」(近藤巡夷録)のみであったと記しているところをみると、かなりの難行苦行の強行軍であったようである。