人事交替が実施されなかったかわりに、調役並でスッツ詰の長谷川儀三郎が、翌安政四年四月二日に「当分イシカリ兼持」(公務日記)となり、一郎右衛門と二人でイシカリ持場の担当者となった。儀三郎はもと表火番で、安政二年十月十七日に箱館奉行所の支配調役並出役となり、三年三月にスッツ詰となった。あとで述べるように儀三郎は、イシカリ改革の基礎調査で重要なはたらきをなしており、「イシカリ兼持」はイシカリ改革へむけての始動であると同時に、それまで問題のみられた一郎右衛門への〝目付〟をなすものであった。
一方、一郎右衛門の処置に対して場所交替はおろか、調役並出役の差免、蝦夷地在住への降格という、非常にきびしい処置がまっていた。これは、イシカリ詰としての職務不履行、悪質な所行がその後、明白となったためであろう。そのあたりを推測させてくれるのが、同四年二月三日に奉行村垣範正のもとに届いた「風聞書」である。範正は三年十二月十七日に廻浦のために箱館を出立し、この時は儀三郎が詰めていたスッツに滞在していた。『公務日記』によるとこの日、堀利熙の内状の中に、「石狩大不出来之儀ニ付、風聞書二冊来ル」とあり、堀利熙のルートの配下のものが、独自にイシカリ場所の内状を調査しており、その報告が二冊の「風聞書」であったとみられる。一郎右衛門に対する処置は、この「風聞書」にもとづき判断がなされたのであろう。
一郎右衛門が差免され、在住申渡しの公布が出されたのは五月十八日であるが、江戸から公書が届いたのは四日で、翌五日にはシャマニ(様似)詰の在住が申し渡されている(公務日記)。この処置は、各場所詰の役人たちへも、相当な衝撃を与えたようである。当時、カラフトを旅行していた浪人、牛丸謙二郎の『樺太久春古丹道中日記(くしゅんこたんどうちゅうにっき)』には、「イシカリ詰水野市(郎)右衛門、不調法ニ付本島へ遠海の由」(五月二十六日条)としるされ、カラフトへの「遠海」の風聞が伝えられている。これはデマにしかすぎなかったが、一郎右衛門の降格が周知のものとなっており、どのような処置をうけるのか、遠くカラフトでも注目されていたのである。
一郎右衛門への処置は、場所詰役人に対して綱紀粛正と精勤をもとめる、箱館奉行のきびしい姿勢のあらわれであった。それと同時に、イシカリ場所では着々とイシカリ改革の準備がすすめられており、この処置はイシカリ改革へのつよい意欲のあらわれでもあった。