蝦夷地への出稼人、永住人の増加につれ、これまで蝦夷地では三官寺(善光寺・等樹院・国泰寺)に限定されていた寺院の他に、新たに寺院の設立の動きが目立ってくるようになった。これは箱館奉行の方でも、移民の定着と招来に、仏教・寺院に依存する点が多く、また財力が豊かで信徒の組織化のすすんだ教団・寺院に、蝦夷地の開発が期待されたからである。さらに、〝邪教〟の防止もはかられていた。そのために、寺社奉行と連携の上で、蝦夷地の布教・寺院の進出を許し、従前の〝禁教〟状態は大幅に改められた。以下、ここではサッポロ・ハッサム関係についてのみ、みることにしよう。
まず三官寺のひとつ、ウスに所在した浄土宗善光寺では、安政四年(一八五七)二月に、西蝦夷地一三カ所に小寺・庵室設立の件が申請された(モンベツ御用所 御用留)。箱館奉行ではこれを三カ所にしぼり、九月に許可がなされた。この三カ所は、スッツ・ヨイチに一軒、ソウヤに一軒、そしてイシカリ領のうち、サッポロ・ハッサムに一軒であった(幕末外国関係文書 一七)。しかし、善光寺側ではスッツ・ヨイチ・イソヤ・オタルナイの四カ所に変更をもとめている。これらは漁場として殷賑をきわめており、ソウヤ及びサッポロ・ハッサムは、布教・寺院維持には不適と判断したからである。この再願は却下され(前掲、御用留)、あくまでも右三カ所に限定された。サッポロ・ハッサムの一カ寺は、安政六年八月にはハッサムに位置がきまり、円照山真如院法性寺と山号・寺号も決定された(紋別御用所 御用留 三ノ三)。しかし、ハッサムは在住がわずかに居住するばかりの地で、実際にはハッサムでの建立にはいたらず、この八月にイシカリの方に善光寺休泊所という名称で建てられた。これが石狩町の法性寺(明治十三年に寺院称号)である。