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蝦中の要喉

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 翌四年、第二次の調査が行われる。前回見られなかった場所を対象とし、四月十日箱館着以来、クロマツナイ越をしイソヤ、フルビラを経て、二十七日タカシマからイシカリに到着した。ここで一行によるイシカリ調査の前半が行われた。一泊し翌日アツタへ向け出立、カラフトに渡ってその東西両岸を回る。帰りは往路をひきかえし、再びイシカリに着いたのが七月十一日で、イシカリ調査の後半が行われた。このあと千歳越をし箱館出帆が八月十九日、途中シラオイで藩主の訃報に接し、急ぎ十月二日江戸にもどった。
 第二次のメンバーは主任の石川と山本が再度の勤め、寺地にかわって吉沢五郎右衛門が入り、従者として要助、卯之助が加わったから、往復両度イシカリ・サッポロを調査した福山藩の一行は五人である。主任の石川和介は、はじめ淵蔵、のち姓を関藤とあらため、文兵衛、成章と称し藤陰を号とした。もとからの阿部家臣でなく、学芸奨励をはかる藩主に抜擢され、天保十四年儒士として迎えられた。その学識世に知られ、温厚淳朴、藩主の側近として信頼をあつめる。弘化元年(一八四四)水戸藩主徳川斉昭が謹慎を命じられると、石川は主君と斉昭や水戸藩改革派の間にたって、その解除と藩政参与実現の労を惜しまなかった。突然の処分が、阿部老中による斉昭の蝦夷地内願危険視からという流言を、石川の誠意で打ち消し、彼自身も蝦夷地に関心を深める動機になったであろう。
 吉沢五郎右衛門は忠恕、遠斎ともいい、第二次のみの参加だが、経歴は明らかでない。山本橘次郎は信敏、武政ともいい、近習で剣の達人だったので一行の護衛役をつとめたらしい。二年つづきの旅の過労と脚気(かっけ)のため二次調査の帰路、安政四年八月九日ヤムクシナイで客死、遺体は箱館まではこばれ称名寺に葬られた。二五歳の若さだった。
 一行は各々記録を残したらしく、吉沢は慶応二年火災でそれを焼失したのを遺憾に思い、『遠斎蝦夷紀行』を明治五年書いたという。メンバーが分担して調べた結果を石川がまとめたものが『観国録』で、第一次のそれも同じだったとみてよい。本書は鋭い観察眼により蝦夷地(カラフト、エトロフを含め)の総体を把握しうるよう体系的にまとめられており、単なる紀行文ではない。
 その中で、イシカリ・サッポロを〝蝦中ノ要喉〟と見なし、「海警ヲ初メ都テノ鎮圧都府タルヘキ形勢」と判断、重要な位置にもかかわらず川口に一役所があるのみで、舟運を通じるとはいえ新施政に対応できないと考え、しかるべき奏議を決意したと述べている。石川らがサッポロの重要性をうったえる建府推称者だったことを知るが、藩主の急死は奏議を不可能にしたのではあるまいか。