蝦夷地に関心をそそいだ多くの藩のうち、九州、四国、中国地方の西南諸藩の動向を次にみることにする。肥前国佐賀藩(鍋島家)では、犬塚与七郎と島義勇を調査のために箱館へ送りこんだが、彼らの書状(安政四年四月~閏五月)は、そのころ活動していた西南諸藩を次のように報告している。
蝦夷地調査をいち早く始めたのは萩藩(長州、毛利家)で、犬塚らが箱館に渡った時にはすでに調査を終えていたらしい。それに豊前国中津藩(奥平家)はユウフツ、サル場所を中心に調べ、土佐国高知藩(山内家)は手島季隆、下許実重を派遣した。その記録が『探箱録』(北征漫録ともいう)である。伊予国宇和島藩(伊達家)は家老の弟吉見左膳、側用人小池九太夫、小姓頭郡中務らに調査を担当させた。播磨国からは赤穂藩(森家)と姫路藩(酒井家)が藩士を送りこんだ。赤穂藩士は俳諧師と称し名を秘したが、姫路藩は昌平校に学んだ高名な儒学者菅野潔にその任を託し『北游乗』を残した。彼はイシカリに足を入れなかったとはいえ、ユウフツからイシカリへの千歳越ルートや、イシカリ川水源が阿寒岳にあるとする説の誤り、西蝦夷地はイシカリを境にその南を口蝦夷とし、以北を中蝦夷と呼ぶ等の記事を収めている。また、松浦武四郎のすすめもあって大がかりな調査団を送った伊勢国津藩(藤堂家)は意外と早い時期に蝦夷地開墾を断念したらしい。
このほか、島義勇『入北記』によると、蝦夷地に望みをかけている諸藩として、薩州、肥後をあげ、鹿児島藩(島津家)は小納戸頭中山次左衛門に調査を担当させ、熊本藩(細川家)は家老長岡監物、物頭魚住源次兵衛、都築四郎等がその任にあたっていると述べている。それに報告者の佐賀藩を加えると、十指にのぼる西南諸藩が蝦夷地に強い関心をはらい、積極的な調査活動を行っていたことがわかる。その中から佐賀藩の様子をみていくことにする。