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深き見込みの場所

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 阿部―堀田政権のもとで進められた蝦夷地上地による第二次幕府直轄政策は、イシカリを大きく変えていった。イシカリを幕府直轄地としただけでなく、「受負人と申は領主同様」で「場所の義は領分と唱」(生田目氏日記)えさえした場所請負制を廃止し、イシカリ方式とも言えそうな、幕府による特殊な支配体制をしいた。
 この政策を推進した阿部―堀田政権下、目付グループ(堀奉行ら)と勘定方グループ(村垣奉行ら)の間に微妙な意見の差異が内在したといわれ、場所請負制の存続を主張したのは、開明派を自認する目付グループで、廃止に傾いたのが、保守派とみなされがちな勘定方グループだったという。しかし、イシカリ改革をみると、堀奉行の積極的な阿部屋罷免の動きから、図式的な解釈の成り立たぬ背景をうかがわせる。ともかく、場所請負制の否定は、その後の流れにてらし必然性をもっていたといえる。外交的、経済的要因をはらみつつ、イシカリ改革はこの政治課題に挑戦したとみていい。
 第一次直轄期は千島とのかかわりから東蝦夷地対策に重点が置かれ、それとの比較でみるならば第二次直轄期は西蝦夷地を重視したと評価されている。なかんずくイシカリの位置づけが強く認識されるにいたったことはまちがいない。改革を総括した『書付』の一節に、イシカリは「東西通路も有之、蝦夷地第一の地勢にて、抑厚き見込も有之」とあり、さらに「兼々深見込も御座候場所」だと言う。この深き見込みを建府構想にまで結びつけるのは早計にしても、けっしてありえぬ空論と否定はできないだろう。