その後新道の再整備がなされたであろうが、それに関連する史料もなく、具体的には不明である。ただ、翌安政六年八月頃に、箱館奉行竹内保徳の廻浦によるイシカリ入りに備えて、「近日之内ニ御奉行様御通行御出被遊ニ相成、仍テ千歳川より尾樽内領字セニハコ迄道普請橋拵……」と、道普請・橋拵(こしらえ)がおこなわれたようである(五十嵐勝右衛門文書)。年時不明の田中家史料には、ある年のアイヌへの介抱料を書き上げた断簡がある。この中に、「ハシヤフ道普請上登り之砌(みぎり)」、「上下リ之砌」として、各清酒一樽、濁酒二樽という記載がある。ここには同じく、「川普請土人拾五人の酒」の項もあり、この「川普請」はハッサム川の「川さらい」とみられる。田中家史料は、安政六年以降の史料に限られるので、ここにみられるハッサム道、ハッサム川の普請は、この安政六年度のものではないかと推察される。イシカリ改革以後にもかかわらず、依然としてアイヌの労働力に依存していたことがわかる。
また、万延元年(一八六〇)一月に、「蝦夷地新道切開御用相勤候もの御手当金」の伺がだされている(安政七年モンベツ御用所 御用留)。これは西海岸各地の新道開削に対して、各場所役人への褒賞であった。ここには、「チトセ山道乙部越山道之儀も追々切開出来」と述べられているので、チトセ山道(サッポロ越新道)と乙部越山道の工事が最も遅れていたことを示している。しかし両道とも「追々切開出来」とあり、前年の安政六年(一八五九)中には完成した模様である。