当所二十軒と有れども、十九軒は当所を見た事も無もの、二十余人は何時か黄泉(よみ)の鬼と成しもの、十余人はトカチえ行居ものをもて、当所の帳面に志(し)るし置こと、如何にも棒(抱)腹に堪たり。遺恨の余り蕪雑に過れ共、軒別の相違を志るし置ことなり。
ここではっきり指摘されているように、人別帳には不居住の者、死亡した者、他行した者などが記載されていた。これは人別帳が、作為的にしかも虚偽に作成されたことをあらわしている。下サッポロも、人別帳には五軒二六人を記載するがまったく居住していない。武四郎はこのような人別帳を「不人別帳」といったのであり、さらに武四郎は以下のように続けている。
如何に土人等とは申せ共、天地造物者の民を、如此支配人や通辞等が私致し、生死の差別もなく人別帳として差出置こと、第一同所詰合を欺詒(あざむ)き、今度の御所置を蔑法し、眼前の私欲を逞疾すること、悪(にく)むに余り有ることなり。
ここで武四郎は、支配人等が不正確な人別帳を役人に提出することは、役人をあざむき、幕府による蝦夷地の再直轄をないがしろにするものであると、つよく批判しているのである。安政三年の人別帳は、以上のように実態とはかけ離れた、虚偽の内容だったのである。