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堀・村垣の上申

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 現在の札幌市域において農民が定住して集落が形成され、「村」と呼ばれるようになって明治に至ったのは、在住制によるところが多い。しかしこの期の在住制についてはまだ研究が進んでいないため、ここではイシカリ在住について必要な範囲で、在住制の概略を記述することとする。
 すでに述べられたように(第二章)、安政元年(一八五四)九月に堀箱館奉行および村垣勘定吟味役は、老中あて「松前蝦夷地惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付」を提出し、幕府による蝦夷地再直轄を上申したが、この中にはすでに開墾等と関連して、在住制に関する基本的な方策が盛り込まれていた。すなわち蝦夷地を大藩に分割するのは弊害が多く、とるべきではないとした上で、「旗本御家人次三男厄介に至迄、内願之もの共ハ、夫々御撰之上、御手当等御仕方相立御移ニ相成、其外陪臣浪人ニテ可御用立者ハ、夫々御所置ニテ御引移有之」(幕末外国関係文書)と、その対象を旗本から浪人までの広範囲に定め、手当等の制を立てて在住を移住させることとし、さらにこれによる効果は、一つには内地御宛行を減じて用立つ者に仕立、二つには内地の費用を費やさずに防備体制を立てることができるとした。
 ついで同年十二月、堀・村垣は老中あての蝦夷地経営に関する上申の中で、在住を東は箱館辺からエトモまで、西は江差在からオタスツまで各三〇〇人ずつを入地させ、追々人別もふえ、風土に慣れるにしたがって順次奥地へ再入地させるとし、これによって在住農兵の体制が整備されれば、諸藩の蝦夷地警備は不要になるとして、在住制に大きな期待を抱いていることを示した。人数のみからみても、六〇〇人の在住とその家族、および後述するが在住の招募する農民とその家族を合計すればかなりの人数となり、この点からも、幕府の期待は必ずしも故のないものではなかったといえよう。
 これに対して老中は、対象に清水附(三卿の一つ清水家付)の軽き者を入れること、イシカリを含む東西蝦夷一一カ所へは、土着の者をできるだけ早く移住させるべきことを指示した。