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老中尋書

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 以上のような経過を経て在住制が達せられ、実行段階に入っていくが、しかし老中の達が出されてわずか二カ月後の安政二年(一八五五)十二月、老中は勘定奉行・箱館奉行に対し、この制度について根本的ともいえる疑義を尋書によって表明した。すなわち、この中ではまず在住そのものについて、在住は何の才幹もなく、たとえあったとしても一時の利を求めて移住するだけで、開墾などは覚束ないし、それに多人数のため人選を行うことはむずかしく、また長たる者がないため、まったく統制がとれない、と手きびしく批判した。ついで幕府一手による開拓は、莫大な経費を要して思わぬ失費が心配されるため、大名に土地を分配すればかえって開拓もすみやかに行われるという意見もあるが、まったくそのとおりとも考えられずとし、「是迄の指図振に不拘」今後どのようにすれば成功するのか意見を述べよ、と開拓政策の根本にまでさかのぼっての再検討を指示した。
 これを一見して明らかなことは、内容的には在住の長たるものに関する以外は、これまで検討されて決定をみたものばかりである。さらにこれは、在住の質、すなわちこの制度によって開拓を担当する者の質について、きわめて低い評価を与えることによって、制度自体を根本的に否定するという見地に立っているとしか理解できない。このような疑義が、しかも在住制が実質的に実施される以前になぜ老中から提示されたのかは明らかではないが、古くは天保十四年に水戸藩がイシカリほか二カ所の場所の借用を願い出ており、安政二年七月には仙台藩が分領を願い出ているが、すでにこれ以前からこうした動きがあったようである。おそらくこうした動向をふまえて安政元年九月、堀・村垣の上申書でも蝦夷地を諸藩に分割することの弊害が主張されていることなどから、幕閣の内部およびその周辺に、窮迫した藩の維持とも関わって、在住制についてはじめからかなり異論があったことを示しているのではなかろうか。さらにこの頃の関係文書では、「文化度」(第一次直轄期)とは異なり、幕府の財政がはなはだしく欠乏していることが繰り返し強調されており、これが在住制の大規模な実施を幕府に逡巡させる一因となったことも考えられる。