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御手作場の性格

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 一般に御手作場を官営農場として、全て官費をもって直接経営する開墾場ないし農場と解されている向きもあるが、当初においてはこのような性格のものではなかった。松川弁之助による石川沢の御手作場に関して、「農夫繰入、一時小屋掛料、農具代等被下、夫食代ハ、人別ニ応じ三ケ年程を限り被下方取計、追々開発為致候」とあり、また新井小一郎のオシャマンベ御手作場においても、「去ル巳年已来繰込候農夫共ハ、道中入用、旅籠代、渡海船賃、農具代、小屋掛料相渡、人利(別か)ニ応じ御手当米金凡三ケ年程ヅヽ被下置」(諸伺書類)とあるように、一般に開墾地に農民を招募して定住させるにあたり、その農民の移転にかかわる費用、現地での家作や生産・生活用具等の費用(多く現物支給)、さらに一定期間(三カ年)の夫食(ふじき)(農民の食料で一人一日五合宛)を官が支給するという、いわば官の扶助・保護によって農民を入植させた開墾場を、御手作場と称したといえよう。そしてこれら扶助農民は、割渡された土地を自力で開墾して占有し、自由に農業を営み、一定の猶予期限を経た後にはじめて「取箇(とりか)」(貢租)徴収の対象とされるものであった。
 ただ移住農民の募集、給付・拝借金品等の出納処理、あるいは勧農・勧業の指導・監督のために、「地方功者(じかたこうしゃ)」(農政全般に通暁せる者)を差配人として任命し、各御手作場に配置している。なおこの差配人には多く在住の者が任じられていた。
 以上のような御手作場も、その採用にあたって箱館奉行所は必ずしも積極的ではなかった節がみられる。それは「一躰余国ヨリ農夫繰込候ニハ、路費雑用ハ勿論、小屋掛農具代夫食をも被下候儀ニ付、自然御入用も相嵩致候間」と、経費の過重な負担をおそれ、したがって「御手作場之方も聊手弛ミなく、御有余金之模様次第農夫繰込箇所増之上」(傍点筆者)という態度でしか対応できなかった(諸伺書類)。いま逆に、安政期に庵原、松川、新井、新妻、佐々木、大友らにその差配を委任して設定された御手作場をみても、彼らを「地方功者」「農業筋巧者」とし、またその現況や計画を考慮して、開墾の成功を充分見込んだ限りでの御手作場設定とも考えられるのである。
 しかしながら、手厚い扶助にもかかわらず、この御手作場の農民の定着は決して良好ではなかった。オシャマンベ御手作場では、上記のように移住農民に多くの金品を給付し、加えて「御在住等之内エ夫々取扱方懸り申付、勧農方教諭致し、傍余業をも申諭、厚世話為致候得共、年限明可成取続出来致し候ものハ、いづれも相応職業有之候もの共ニ相限り候ニテ、多分ハ相続難相成、半ケ年或ハ壱ケ年程ヅヽ、身元之厚薄ニ寄飯米被下方拝借等取計、漸為取続候儀ニ有之」(諸伺書類)という状況であった。要するに扶助給付の期間が切れると、直ちに御手作場から離脱する者が大半で、そのため飯米をさらに延長して給付あるいは貸し付けることによって、かろうじて開墾を継続させつつあることがうかがえる。
 このような現象は、招募した農民のうち継続して開墾に従事する少数の者は「いづれも相応職業有之候もの共に相限り」と示されていることから、逆に大半の離脱する者は浮浪の徒であることが推量され、扶助の有無により容易に流動することによって生じたものであった。二宮金次郎の尊徳仕法を捧持する新妻・佐々木・大友らの箱館近在御手作場においても、同じように扶助した農民ですら退去する有様であったという(新撰北海道史 第二巻)。