右の史料によっても、イシカリの地に開拓が着手され、その尖兵として在住が配置されたことを知りうるが、前章の記述によって見ると、安政三年から同五年の間に二五人ほどの者がイシカリ在住を申し渡されている。安政五年十二月現在で蝦夷地在住総数は七〇人とあるから、移動もありうるので正確な数値といいえないにしても、安政期に全在住のほぼ三分の一がイシカリに配置されたとみなされる。
しかしその後これら在住のうち、死亡や退去、また他の地域への移住、特に切迫する北蝦夷地への移動も目立ち、その数は減少の一途をたどるのに比して、新たな増員はきわめて乏しかった。このことは、箱館奉行所自体がイシカリを政治的、軍事的に、またそれゆえに開発を目指しての要衝の地と位置づけながら、現実には停滞、むしろ後退していることを意味する。
これは開拓の主体として案出された在住制の行き詰まりに起因するものであろうが、その背景には第一に、箱館奉行所の、ひいては幕府の財政窮乏によって、打つ手を失っていたという事情もあろう。「尤文化度之如く、莫大之御下ゲ金有之候ヘバ、御成功も速ニ相整可申候得共」(蝦夷地上地之儀ニ付見込大略申上候書付)などと、文化期の第一次直轄時代の蝦夷地経営費とは比較にならない現状を、箱館奉行たちは繰り返し嘆息している。
このような状況の継続の後、慶応二年(一八六六)正月に箱館奉行の小出大和守は蝦夷地開拓に関する上申書を提出しているが、その中で「当地御用途之儀も方今追々見通し相付、御収納より御出方相減候に付」と、やっと箱館奉行所の経費も黒字に転じて、財政上の見通しが立てられるようになったことを吐露し、続いてこれに基づき「先金三千両を目当に仕、当寅年より石狩を手始メ仕、追々奥地之方エ農夫繰入開墾為仕可申奉存候」と、新規の体制で改めてイシカリを中心に開拓を促進することを含めての評議を、要請するに至ったのである(ヨイチ林家 諸覚諸書上)。