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大友亀太郎

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 イシカリ御手作場の取り扱いを申し渡された大友亀太郎は、天保五年(一八三四)四月二十七日相模国足柄下郡西大友村(現神奈川県小田原市)において、農民飯倉吉右衛門の長男として出生し、名は玄英、通称亀太郎と称した。嘉永六年(一八五三)村費賄人となり、安政二年(一八五五)家業を弟の弥兵衛に譲り、同郷の農民杉田藤吉に従って、近村出身で当時農政家として天下を風靡していた二宮尊徳に仕えんと、下野国芳賀郡桜町(現栃木県今市市)に赴いた。師の言により黒鍬(くろくわ)の業に従事し、かたわら門下生について尊徳仕法の大意を学び、師の没後二宮尊行の門の下になお破畑人足として黒鍬の業に励んだ。

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写真-1 大友亀太郎

 安政五年(一八五八)四月に、尊徳の門人で中村藩相馬大膳亮の家来である新妻助惣、佐々木長左衛門、大友新六蝦夷地に赴くのに随行して大友も箱館に渡来した。これより先安政二年五月に幕府は、箱館奉行堀織部正の申し立てに基づき、蝦夷地の開拓仕法の定立を二宮尊徳に要請したが、日光御神領の仕法中であったのと病のゆえをもって実現せず、また尊徳も翌年死去した。しかしなお箱館奉行の要望により、嗣子尊行の計いによって上記中村藩士の三人が派遣されるに至ったものという(二宮尊徳伝)。なお中村藩は早くから尊徳仕法を最も熱心に学んでいた藩の一つであった。
 新妻、佐々木、大友(新六)らは直ちに箱館奉行所によって在住に任命され、箱館近在に設定した御手作場の差配にあたり、それに従う亀太郎も箱館奉行所として木古内御手作場の開墾に従事するが、同安政五年十二月十五日に奉行所より在住に任じられ(年手当金一〇両)、新妻らの手付(てつき)開墾農夫取立方として木古内・大野の両御手作場を兼勤(役金年六両)、この時はじめて姓を出身村名にちなんで大友と改めた。翌六年正月農民招募のため新妻らと共に越後国に出張し、五月の帰箱後、手付から新妻らと同列の差配人の地位に昇任し、大野に家作を給付された。以降八カ年におよび御手作場の経営に当たり、この間箱館在有川村で廻船問屋を営む種田徳兵衛の娘サダを妻に迎えている。かくて新妻らと共に木古内村移民二四戸・開田畑三〇町歩余、また亀太郎独力の差配により大野村移民四八戸・開田畑一〇〇町歩余を成しとげたのであるが、慶応元年(一八六五)に箱館奉行所は箱館付村々の御手作場をすべて廃止するにいたった。
 このような状況の中で、翌二年、前述のように箱館奉行所は新たな体制をもって改めてイシカリを中心とした蝦夷地開拓の方針を打ち出し、その開拓の差配を、木古内・大野の両村での実績をふまえて大友亀太郎に命じたのである。