最後に第三の書類として、『別紙願之事』と記された、四項の大友個人にかかわる請願書がある(石狩開墾取扱願伺取調書上帳 大友文書)。
①イシカリ御手作場へ移転するにあたり、従来支給されていた手当と別段手当との一季分前借の願。
②従来から小給の身の上に、昨慶応元年に家屋類焼し、加えてその後夫婦共に病んで薬代等に費やして借財がかさみ、その返済とイシカリ赴任の支度のため、金五〇両を一〇カ年賦で借用の願。
③イシカリ赴任に同道する家族等の引越料支給の願。
④本来小給の上、他の在住と異なり、開墾取扱という職務は繁忙で自分稼ぎができず、加えて当今諸式高騰して生活難につき、一人扶持たりとも支給の儀願上。
右の四項であるが、これらは共に生活困窮の状況にある大友自身の切実な請願であった。これらに対し奉行所は、③の引越料は肯定しなかったが、特に④に関連し「御手当願之儀ハ、石狩出役中御扶持高弐人扶持、日当御手当一日永百三拾六文壱分ツヽ開墾御入用之内を以被下、尤是迠被下候別段御手当六両ハ、已来不被下候事」と回答している。なお①と②の事項に対する回答は見られないが、おそらく④の決定により見合わせられたものと推測される。ただ②に関連して、慶応四年六月の『石狩御手作場開墾御用金請払書上下書』(大友文書)には、「御手当取越し拝借致居候分」として大友への金五〇両の拝借金額が、初めて計上されている。
さて、イシカリ御手作場の開墾取扱掛としての大友は、身分は在住と変わりはないが、その手当は前記の如く、大友の請願を上回っての二人扶持・日当永一三六文一分となった。大友の『履歴書』(大友亀太郎文書補遺)をみると、安政五年以来の手当は、年金一〇両ならびに別段(役)手当年金六両との、合わせて年給与は金一六両であった。これは在住士分の手当表(諸伺書類)に照合するとほぼ最下級の「浪人」身分に相当する。それがイシカリ転勤にともなって上記の給与となったのであるが、これを金に換算してみると、おおよそ(陰暦と陽暦との差違もあるが平均的に)まず二人扶持の分は(一人扶持は一日米五合割りであるから、年三六五日、慶応二年の米価一升銭四三五文をもって)、年金二三両一分永九九文二分となる(翌慶応三年の米価は一升銭六七五文と高騰し、これに基づくと二人扶持分は金三六両を超える)。次いで手当の分は、日当永一三六文一分を一年当たり(三六五日として)に換算すると、金四九両二分永一七六文五分となり、二人扶持と手当とを合算すると、慶応二年において年給与は金七三両永二五文七分に相当することになる。農民出身の大友は、イシカリに転じたことにより、それ以前の給与と比較すると、ほぼ四・五倍を超える身分に急昇したことになる。なお二人扶持の分は、慶応二年は銭で、同三、四年は米の現物で支給されている。