さて、上述のような手厚い扶助のもとに移住した農民たちは、いかほどの田畑開発をなしとげつつあったのであろうか。それを慶応三・四年の『石狩御手作場開発田畑取調書上帳』(大友文書)によって見てみよう。
まず慶応二年の七月に最初の御手作場農民四戸(長蔵・万次郎・宅四郎・弥平次)と八月に四戸(松太郎・勘右衛門・吉之助・寅吉)が入植し、開墾場の造成は未完成であったが、直ちに開墾に着手した。この慶応二年における起返(おこしがえ)しの地積は、各戸の内訳は不明であるが、合わせて畑一町二畝歩であった。
翌慶応三年には、上記八戸と共に、前年十一月入植の一戸(寅助)と、三年一月の三戸(磯吉・卯之助・三太郎)、八月の三戸(嘉蔵・佐次右衛門・長八)と、六月に御手作場編入の一戸(荷三郎)との一一戸が加わって、計一九戸をもって開墾に当たった。この結果慶応三年の起返し分は、畑二〇町九反四畝五歩ならびに田二反歩の計二一町一反四畝五歩であった。これに同年中川金之助よりの上地(あげち)分の畑九反六畝歩と田二反四畝歩、それに慶応二年分の一町二畝歩を加えると、慶応三年末における御手作場の開発田畑は二三町三反六畝五歩となった。
各戸別の開墾地積をみると、慶応二年分を含み(特記しない限り畑)、長蔵(一町四反五畝八歩)、万次郎(六反七畝四歩)、宅四郎(一町四反四畝九歩)、弥平次(一町五反八畝二一歩)、松太郎(一町五反四畝一九歩、このうち六反歩は自分起返し分)、勘右衛門(八反一畝一一歩)、吉之助(一町四畝一九歩)、寅吉(八反七畝五歩)、寅助(一町六反六畝二二歩と田二反歩)、久八(九反五畝二歩)、徳三郎(一町二反五畝一四歩)、三九郎(一町一反四畝五歩)、磯吉(一町二反八畝八歩)、卯之助(一町二畝一一歩)、三太郎(九反四畝六歩)、嘉蔵(八反七畝一八歩)、佐次右衛門(八反一畝四歩)、長八(一町二反八畝一〇歩)、であった。なお中川金之助上地分を含め荷三郎耕作分は一町二反九畝一九歩となっている。
以上によると慶応二・三年における農民一戸平均の新規起返しは一町一反五畝を超える。