すなわち、これに関してこれまではたとえば『札幌新聞』第六号(明治十三年六月)のように、山岡などがこの村に農民を移し開墾等に着手したが「慶応三(ママ)年任満ちて帰るに及で移民も亦散乱し」、明治二年秋の開拓使行政開始によって再び農民が集まったとされている。しかし表1によれば「散乱」したはずの時期に農民が続々と入地している。
まず記述整理の都合上やや煩雑にはなるが、従来まちまちであった山岡の退去年月を確定しておきたい。これに関して大友文書によれば「去々寅年(慶応二年)山岡精次郎出府の砌」(御用留 慶応四年)云々とあり、他の文書では慶応二年九月までの在地が確認できる。さらに『西蝦夷地高島運上家日記』には同年十月十日の項に「今日山岡様御通行相成、見立番人兵七殿喜太郎弐人、外スクツシ人足三拾人備馬不残、テミヤ人足弐拾五人にて継立候事」(越崎宗一 鰊場史話)とあって、人足五五人とすべての備馬を動員しており、単なる山岡一人の旅行ではなく、一家の退去とみるべきである。すなわち山岡は慶応二年十月早々にハッサムを出立、退去したといえる。山岡がハッサム最後の在住であったことはまず動かし難いから、そうなれば扶助の道を断たれた農民も四散するのが当然である。しかし実際はそうはならなかった。