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耕地

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 これもやはり後年の史料になるが、明治七年(一八七四)十月に開拓使が測量した『発寒村地図』(彩色)を、若干省略して掲載した(図1)。原図には外に林、野、谷地等が色分けされ、宅地間の距離もいくつか記入されている。

図-1 発寒村地図(明治7年10月)

 これによれば、ハッサム川はこの地域では幾本かに分れて流れ、中洲がある。耕地は川の左岸を主とし、中洲・右岸に及んでいる。おそらく氏名の前に番号の付された地が入地の場所であり、何某耕と記されているのは、その後の開墾であろう。また一番浜田から五番八重樫までは、四番笹布(万延元年)を除いて安政中に土地割渡しを受けており、ハッサム村はこのあたりから始まったことを推測させる。なお昭和に入って作成された簡易な『発寒在住配置図』では、五番八重樫のあたりが「山岡様」、四番笹布源吉の西側辺が「永田旧跡」と記されており、他は農民名だけで在住名はない。『検地野帳』に記載されている明治六年現在の総農家数が二〇戸であることからみても、開拓使設置直前のハッサム村は、この図より若干小規模な程度で、はなはだしい相違はなかったと思われる。
 つぎに村の位置であるが、一番浜田と二番鈴木の間にある「イナリ」が、発寒神社のあった場所(現春日公園および発寒小学校校地辺)である。したがってここからやや南東側が現発寒中央駅の地ということになる。また銭箱新道までの距離も、ほぼ現在と同じである。ただし当時の地図は、現在の地図に重ねての検討に耐えるだけの正確さには達してはいなかったから、この操作は行わなかった。なお、参考として明治十四年の開拓使地理係『石狩国札幌郡之図』(国公文)中関係個所を図2に掲げる。この場合、鉄道が太線で入っているので、位置関係がよく分かるし、整然と区画された発寒屯田兵村と対照的に、自然発生的といいたいほど、雑然と耕地が並んでいる。おそらくハッサム村形成時には、たとえば川岸の自然堤防など、耕作しやすい土地を選んで開墾が始まった結果であろう。なお『発寒村地図』中の一番、二番付近は、のち発寒屯田兵村設置によって、屯田事務局へ変換となっている。

図-2 明治14年の発寒村
開拓使地理係『石狩国札幌郡之図』(部分)