前節に記したように、清太郎はコトニ川支流近辺において、おそらく安政五年(一八五八)から稲作を開始したが、荒井村に本拠を移してからも、稲作は続けられた。文久二年(一八六二)に水田二反四畝を開き、玄米四石四斗四升を収穫した。稲作は慶応元年(一八六五)まで続けられたが、同年洪水のため、翌年からは中止せざるを得なかった。他の農民の中にも、稲作を行ったものがいるとみられる。
畑作については、ハッサム村などとほぼ同様に行われたとみられるが、詳細は不明である。ただ慶応二年に大友亀太郎を担当者として始まった御手作場には、幾種類かの畑作物の種子を供給している。これについては「シノロ村」の項で述べる。
また当時、村の生活にとって必要な神社は、荒井金助により八幡社が氏神として建立され、八月十五日を祭日とした。篠路神社の前身である。そのほか露国風の角組倉庫(五間と四間)を建築して義倉と称し、各農夫の収穫した穀類および米塩噌を貯蔵した。収穫庫のほかに、のちにいう常備倉的な機能もあわせもっていたのであろう。
このほか、荒井村で注目すべきは、二人の武術教師が一応在地していたことである。すなわち『事蹟材料』によれば、剱客下国雪之進(丞)および槍術士荒谷兵三郎をして農民に撃剣を教えさせた、とある。この二人については、のちにいわゆるオタルナイ騒動に参加する事情も含めて、本章第四節で記述する。このほか在住でイシカリ場所学問所教授の鈴木顕輔などをよんで、聖教を講じさせたりしたといわれる。