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シノロ村の成立

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 慶応二年に大友亀太郎を掛とする御手作場が設置されたが、同年十月には、大友文書中に種物買入の支払い先として「シノロ 喜右衛門」の、また借船賃の支払いとして「シノロ 喜三郎」の名がみえる(石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳 慶応二年)。翌三年には種物買入として「シノロ 清太郎」、「シノロ 金松」の名があり、さらに用悪水路築造関係中に「御手作場よりシノロ村上迨」(同 慶応三年)の文言がみられる。すなわちこれらによれば、少なくとも慶応二年までにシノロ村は成立した。また清太郎は荒井村、金(兼)松は中嶋村系であるから、シノロ村は荒井・中嶋村の合したもの、といえる。
 このシノロ村の成立年、およびその事情は明確にし得ない。ただ中嶋村を統轄していた中嶋彦左衛門は、文久二年に退去したと伝えられている(岩村判官 札幌開拓記)。とすると、残された中嶋村の農民人別を荒井村のそれと合し、旧来の地名をとってシノロ村とした、と推定するのが妥当と思われる。
 しかしシノロ村が成立したとはいえ、内実は一村としての形態をととのえてはいなかったと思われる。すなわち、明治三年四月の『兵部省分引継書類』中、「シノロ村名主 畑六」が五六両余の、「シノロ村名主 兼松」が二九両余の、扶助米に関する貸渡金返済の猶予をそれぞれ兵部省に願い出ており、これによれば、荒井・中嶋村は名目上一村とはなったが、それぞれに名主がおり、少なくともこの時点までの実態は、ほぼ二村のままであったといえよう。