大友は用排水路としての
堀割を掘削し、それが最終的に
フシコサッポロ川に注ぐ落口付近に
開墾取扱所(大友役宅)を置いた。そしてここに至る
堀割に沿って左右に農地を区画し、また
開墾取扱所から堀と逆の方向にも、丘珠へ抜ける道路に沿って同じく農地を区画した。かくしてこの区画された農地に、慶応二年七月を皮切りとして随時前述の農民たちを配置していったのである。ただ区画の規準とか、農民への割当の方法とかについては不明である。
このような農民配置の状況を、明治四年の時点に想定して復元を試みて作成されたのが図4である。
イシカリ御手作場はこの図では札縨元村の地内である。なお札縨新村とは、明治三年五月に
開拓使が柏崎県越後国刈羽郡より招募した農民二二戸・九六人を入植せしめた地内である。
図-4 札幌村(明治四年)