明治元年(一八六八)正月に鳥羽・伏見の戦に敗れた旧幕府勢力に対し、新政府はなお徹底的な追討をゆるめず、戦乱は奥羽越列藩同盟を結成した奥羽地方に展開した。新政府より蝦夷地の警備を命じられていた東北の秋田、津軽、南部、仙台の諸藩も、この本国での緊迫した情勢に動揺して脱走・逃亡があいつぎ、その警備はなすすべもなかった。他方で、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、旧幕府軍艦八隻を率いて品川沖を脱出して蝦夷地に向かい、十月二十日に鷲ノ木に上陸、同二十五日に箱館に入った。この直前に清水谷箱館府知事以下は青森に退去するのやむなきに至った。そして蝦夷島全域を支配した旧幕軍は、明治元年十二月十五日に榎本を総裁とする蝦夷島政権を樹立したのである。
蝦夷島政権は蝦夷地の支配のため開拓奉行(沢太郎左衛門)を置き、二〇〇人余の移住者を伴って室蘭を本営として東・西蝦夷地の警備と開拓にあたった。そして西蝦夷地に関しては、一小隊もしくは二〇~三〇人あてを石狩、小樽内、歌棄に在番させることとした。かくして明治元年十二月晦日に小樽内では、旧幕軍衝鉾隊頭取役酒井兼三郎が一小隊、また開拓奉行調役西村賢八郎は彰義隊士一〇余名を率いて入った。