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石狩の状況

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 石狩役所では旧幕軍の侵攻に対処して、役所前に角材を積んで防御工事を施したという(札幌区史)。またこの政権交代を機に、旧イシカリ場所請負人阿部屋は、再度イシカリ場所の請負を画策し、また蝦夷島政権も財政確保の必要上、両者間で請負契約がなされたことから、(第四章第三節参照)、当然現地でのイシカリ在番の動きがあったはずであるが、イシカリにおける旧幕軍の動静についてはつまびらかではない。ただ箱館府石狩詰の主任であった参事井上弥吉は以下のように回顧している。
時ニ日本内地ノ形勢ハ如何ト聞ケハ、会津ハ九月下旬落城シテ徳川ノ脱兵等ハ品川湾ニ繫留セル徳川軍艦(十余艘)ト謀リ通シ、品海ヲ脱出シテ函館ニ襲来セントノ巷説カ紛々テアツタ、後ニハ果シテ事実トナツタノテアツタ、熟(ツ)ラ/\考フレハ自分ハ単純ナル一己ノ民政官吏テアツテ、遠ク此北海道ノ果ニ在勤ス、今日ハ軍人テナケレハ素ヨリ兵器ヲ身ニ携フベクモアラス、マシテ配下ノ吏員ハ悉ク旧幕吏カ一旦帰順シテ更ニ採用サレタノテアレハ、徳川ノ脱艦今ヤ襲来スト聞クヤ、徳川幕府再興ノ好機到来セリト彼等ハ誤認シテ、心密カニ喜ヒマツト云フ有様テ、私ニ対シテハ職務上陽ニ命ヲ聞モ、陰カニ襲来ヲ期待スルノテアル、期々(ママ)ル風説ノ遠ク此地ニ伝ハルニ、未タ総督府ヨリハ何等ノ命令モナイノテ、私ハ殆ント寝食ヲ安セス心配シタ、前ニ申ス如キ牧民官テアレハ、民勇ヲ募リ猟銃ヲ集メ、昨日ノ長州男児ヲ気取リ、一戦ヲ試ミルト云フ如キノ念ハ遺憾ナカラナカツタノテアル、只管民心ノ動揺セヌ様ニ敵ニ逆ハヌ様ニ鎮撫スル外ハナカツタ、又配下ノ吏員トテモ仮令内心ニイカカアルモ、表面職ニ従事スル限リ心中ヲアバク訳ニモユカズ、突当ル其日迄ハ共ニヤツテ行ク積リテアツタ、又敵ニ対シテハ王政一新ノ大義ヲ弁明シ、予ハ蝦夷地開拓ノ為在勤サレタノテアレハ、本職責ヲ以テ飽クマテモ平和ニ処理スヘク、万一モ敵ハ暴力テ以テ来レハ衆寡不敵ヲ、私ハ夫レ迄ノ運命タト決心シタノテアツタ
(北海道遭難之記)

 このように地方行政の責任者としての異常な立場や心中と、当時の状況がうかがえて興味深いが、結局井上は十一月に入り岩内詰主任からの密使によって危機が切迫しているとの報に接し、従者と服心の者一人をともなって銭函の漁業者西谷嘉吉によってかくまわれ、また旧幕軍の小樽内進駐を知って、さらに山中の杣小屋に厳冬の中潜伏するのである。そして翌二年三月十一日に、ひそかに救助に来た青森口総督参謀山田市之丞(顕義)に救出され、青森へ赴いたのである。
 二年三月から小樽内での旧幕軍は一部衝鉾隊が撤退を開始し、また後に残部の彰義隊も石狩へ移動して同地に在留していた旧幕軍と共に、札幌越えをして西蝦夷地に敗走したという(札幌区史)。四月には青森口総督軍が反撃に転じ、五月十八日に五稜郭に拠っていた榎本武揚らは降伏して、再度蝦夷島箱館府の統轄するところとなった。井上弥吉も再び石狩詰にもどるのであるが、その時沿道はもとより所轄地域に入っては盛んな歓迎を受けたという。