箱館戦争が平定に向かいつつあった明治二年五月二十一日、天皇は行政官・六官・学校・待詔局・府県の五等官以上および親王・大臣・非職公卿・麝香間詰諸侯を召し、皇道興隆・知藩事任命と共に蝦夷地開拓を、また翌二十二日には在府諸侯・中下大夫・諸官人・上士総代を召して皇道興隆ならびに蝦夷地開拓の件をそれぞれ勅問してその奉答を求めた。ここにみる蝦夷地開拓の条項は、皇国の北門で対内外的に重大な状況下にある蝦夷地に対する、開拓の得失を問うものであった(法令全書)。特に勅問の対象が、政権に直接関与する者のみならず、中央・地方また上下・新旧の広範な層にも及んでいることは、蝦夷地開拓の問題は単なる一地方の問題ではなく、国家的問題として受けとめていることの証左であろう。
またこれに先立ち議定の岩倉具視も、明治元年十月二十一日諸制度一八カ条の中の一条に「蝦夷地ニ国名を可被付事」を、さらに二年二月二十八日には外交・会計と共に「蝦夷地開拓」を建議している。特に後者では蝦夷地開拓の緊急性と開拓の手順を説き、「畢生此土地ニ尽瘁スヘキ人材ヲ撰択シ其事務ヲ専任セシメ」、また開拓を計画し遂行するため「先ッ議定参与弁事各一員」をもって構成する特定機構の形成を主張していた(岩倉公実記)。
ところで、蝦夷地開拓の勅問と同時に、政府部内では新しい動きを示してくる。それは二年五月二十二日会計官判事の島義勇に本官兼務をもって蝦夷開拓御用掛を、また同月(日時不詳)軍務官判事の桜井慎平にも同御用掛を命じた。そして六月四日には本人の請願に基づき、議定の鍋島直正(前佐賀藩主)を開拓督務に任命したのである。加えて六月六日には松浦武四郎・佐原志賀之介・相良偆斉をも蝦夷御用掛に任じている。
これらの動向は、すでに蝦夷地の地方行政ならびに開拓の職務を担う機関として箱館府が存在しているにもかかわらず、勅問あるいは岩倉建議にみたごとく、一地方の問題としてではなく蝦夷地開拓を国家的事業として推進するための、強固な機構の創出を意図していると推察される。そしてそれは、集権国家への第一段階である版籍奉還を明治二年六月十七日に果たし、引き続いての官制改正によって設置された、開拓使において現実化するのである。