このような北地使節などの派遣の論議の最中、他方で開拓長官の問題もからんできた。それは鍋島開拓長官の大納言昇任の問題によって起こる。ただ鍋島の大納言就任の事情についてはつまびらかではない。鍋島が対露強硬論者であり、政府の消極的方針にそわないので長官の職をはずしたのではないかとの説もある(井黒弥太郎 黒田清隆)。木戸などは八月十五日の伊藤宛書簡で「根軸屹度御悔悟無之ては、必又他日之変移不待言」と、これまでの鍋島の行動に懐疑の念をいだいている(木戸文書 三)。ただ大納言の職に欠員があることは事実であり、また岩倉は別に「肥老公越前公容堂公、大納言ニ仰付度事」(岩倉具視文書 国図)とも言っており、あるいは再び旧雄藩藩主を入れて廟堂のバランスを考えていたのでもあろうか。
ともあれ八月十六日鍋島は大納言に任命され、加えて「開拓長官如元」とされ、さらに五、六日中に開拓に関し調査し、片時も速やかに移住渡海を計るべく指令されている(公文録 開拓使伺)。と同時に政府は、沢外務卿と伊藤大蔵少輔に対し、当官を以て箱館へ出張し「北海道地方諸務取計」(伊藤には諸務御用掛)を指令している(同前)。この時期の官制では大臣・大納言・参議の太政官構成員は、行政省庁の長を兼務することはできない建前であった。にもかかわらず鍋島に対して大納言と開拓長官の兼務を指令した。このことを八月十三日にその兼務案を提示した岩倉の意向にそってみてみると、「閑叟(鍋島)大納言、開拓如元断絶被仰付、凡て開拓局にて評決」として、紛糾する北地問題はあくまで開拓使を主体として解決をはかろうとしていたが(岩倉関係文書 七)、そのためには一時でも長官の空席は避けねばならぬことから生み出された案ではなかったろうか。そこでまた、大納言として最早北海道への赴任をみない鍋島の代理として、沢・伊藤に箱館出張を指令したとみられる。いわばこの鍋島の長官兼務と沢・伊藤の函館出張との両指令は緊急避難的措置といえるのである。それ故その後本来の開拓長官の人事が急速に進められ、その人事と赴任が決定するや、上記一連の指令はすべて発動されることなく消滅している。