図-1 島判官の本府計画図
『石狩国本府指図』をもとに作成した。
また九月に来た東久世長官は、「本府経営甚広大也。府前棚門新規落成、大道両側役宅也。学校病院建設地割有之。長官判官邸宅地各幅五十間奥行六十間。本府之地割三町四方。道幅三間。昨年島団右衛門雪中所経営也(中略)其成績規模之広大ナル所感賞也」と日記に記している(東久世日録)。本府前の門がどこの門か特定できないが、民地との区別を示すために大通辺にあったといわれているものであろうか。ほかの道路幅と本府の敷地の表記以外は、だいたい「石狩国本府指図」の通りの記述である。おそらく指図を見せられながら説明をうけたものであろう。やはりその広大さを強調している。
一方このような本府について、庶民はどのように感じていただろうか。ほとんど開拓されていない土地に建設される広大な本府であるが、それについての庶民の感想はあまり多く見出されていない。松前辺での風評が場所請負人たちの日記に残されているものくらいであろうか。佐藤家の「箱館出張御用留下扣」(松前町史第三巻)には、十月二十八日の項に、松前風説書の中に次のようにあるとして、「石狩御開之上、王城同様、主総督御詰ニ相成。頓(ママ)而東京より下之大名参勤ニ可相成。京都ニは、上方大名、参勤ニ相成可申趣」と記している。後に島判官から場所請負人廃止が達されて、移り住むように指令されることなど想像だにしえない時期の風説である。この風説は、島判官が大久保、副島に書き送った「他年世界中之大名都ト可相成ト奉存候」という言葉と共通する感がある。この噂の主はだれか不明だが、官がまだ構想している段階で、「石狩大府指図」に示された規模を示しているようにも思われる。島判官の言葉や構想と同様の噂が出たのは、もしかすると島判官たちが噂の根源であったのかもしれない。