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豊平開墾を巡る事情

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 前出の史料①~⑤に登場する役人は、石山大主典、楠元権少主典、荒井使掌、藤沢使掌、平田使掌の五人である。このうち石山と平田は、場所請負人へ示した到着の通達のなかで、サツホロを赴任地にしているものである(箱館出張御用留下扣)。また八月二十六、七日頃の案を示す「松浦判官手沢明治二己巳年開拓使官員録」(道文)では、五人全員が札幌詰となっている。
 さらに黒沢権大主典が出した豊平開墾の会計精算に関する文書群がある。それは、この豊平開墾に関する経費の精算が不明確であったため、調査に当たった黒沢権大主典がその事情聴取のために、三年になって関係者から集めた文書である。それには以下のような記述がある。
札幌郡之内豊平、昨巳年十月下旬、島判官在職中、同所開墾之義、石山大主典え委任被致、右入用金として八百五拾両玄米四斗八升五合入拾五俵御渡相成、同所え石山大主典楠元権少主典藤沢使掌荒井使掌平田使掌出張、夫々開墾手配罷在候処、同十一月中旬御模様替ニ相成、官員一同諸郡え詰替被申付、其節石山大主典江刺海官所詰被命、楠元権少主典岩内石炭山詰被命、藤沢使掌荒井使掌銭函詰平田使掌札幌詰被命、何レも夫々御分配相成、兼テ石山大主典請取候金穀共、同人より小貫権大主典監督命ヲ以立会、山田大主典へ引渡候趣
(管内往復留 道文二三〇)

 この史料をみると、次のことがわかる。島判官一行到着後の十月下旬から十一月中旬に、石山大主典他四人による豊平開墾が行われた。その事業は十一月中旬の「模様替え」により中止となった。この「模様替え」とは、石狩本府建設の開始や江差海官所設置や岩内石炭山開設にともなう配置換えである。その「模様替え」とともに、石山大主典は江差海官所へ、楠元権少主典は岩内石炭山に派遣されるなどして札幌から離れた。その時に豊平開墾用に支出した金の精算をしたが、山田大主典が絡んでいたため不十分であった。そのため三年になってから黒沢権大主典がその調査を命ぜられたのである。黒沢は四月頃から十一月頃まで関係者五人から事情聴取して、その事件を究明した。その結果山田大主典へ返金したことまでは確認できたようである。
 この山田大主典とは忍藩出身の山田一太夫のことで、二年十、十一月頃の銭函札幌の金穀掛の責任者であった。しかし島判官から「婦女子同様暗愚自由之進退」と評される人物である。この豊平開墾の残金を整理不十分で遺失したり、他の金も行方不明にしていることからみて、その会計能力は疎漏であった(十文字家文書 道文)。さらに役所にしていた宿所へ遊女を侍らせて執務をしている。二年十二月にそれらの責任を問われて罷免されている(開拓使公文録 道文五七〇二)。