一方松岡使掌は十二月二十日に札幌から函館に到着する。その後船待ちしていた小貫たちと一緒に十二月二十一日出帆し、二十三日に平館に到着した。そこからはやはり陸行して盛岡へ向かった。盛岡にいつ到着したのかは不明だが、盛岡には一月三日まで滞留した。盛岡での滞在では、島判官からの指令で盛岡藩へ切起し人足募集を要請した。四日未明盛岡出発、昼夜兼行で六日夜涌谷(現宮城県涌谷町)に到着した。七日から役所で相談をした。しかし登米県(現宮城県内)は当所が累年凶作で四民衰窮して救助米を出している。さらに隣県へも互いに出しあっている状況で、回米は無理であることを主張した。松岡使掌はさらに談判して何とかいくらかの調達の目処をつけた。しかしそれとて実際の状況から見てどうなるかわからない様子であった(午正月十六日付十文字大主典宛松岡使掌書簡 十文字家文書 道文)。
松岡使掌が募集した移民は中止指令で解散している。人足は宮古まで移動したが、中止指令でやはり解散している(御金遣払帖 市史 第六巻)。米については七月に小樽へ到着したことが確認できる(石狩往復 道文三〇六)。しかし三年六月函館金穀掛が、松岡使掌が調達した米六八六石余の代金を大蔵省を通じて登米県へ支払うように東京詰へ依頼している。実際この代金は、七月大蔵省出納司へ支払われているので、開拓使がこの米を収納したことは確認できる(開拓使公文録 道文五七〇四)。