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東久世長官の上京

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 明治三年正月(日欠)付の次のような開拓使伺書がある。
 石狩州札幌ハ北海道枢要之地ニ付本府ヲ爰所に相立、石狩小樽高島等ノ諸郡並近国便宜之地而已ヲ管轄可致之事
 (但書略)
 諸藩オヰテ追々開拓願出候ニ付てハ余地無之候間、本府ニ隔絶スルノ土地各藩へ支配可被仰付之事
 樺太全州ハ魯人応接之義重モ之事ニ付、外務省管轄ニ可被仰付之事
 職員ヲ改正スル之事
 (但書略)
 根基ヲ定規則ヲ立殊地区々之取計有ヘカラス、事大小トナク判官監督シ長官裁決シ専ラ一致ナルヘシ、必一己之取計ニ及フモノハ厳罰アルヘキ事
(市史 第七巻)

 この伺書には日付はないが、正月早々の作成であろう。それは第一項の石狩・小樽・高島等の開拓使管轄は一月八日に解決しているからである。この伺書作成から間もない一月十二日に東久世は函館を出帆して上京の途についた。この上京目的には、右の伺書中未解決事項の掛合が当然含まれていたであろう。東久世自身は一月十二日付の日記に、その上京目的を以下のように記している。
今度上京趣意ハ、嶋判官在西地、専独逞意見不応函館本府之下知、独断本府建築金穀共空乏、仍て資本金穀増額ニ相成歟、嶋判官別段御所置有之歟、伺定之為上京也
(東久世通禧日録)

とあり、島が長官の下知を聞かずに独断専行し、財政の窮乏をもたらしたので、財政を補塡するか、島を処置するか、いずれかの決定を求めての上京である、といっている。このことは先の伺書第五項における、独断専行を禁じて専決権は長官に帰す、という事項との関連と見てとれる。したがって日記の「嶋判官別段御所置」は、伺事項の「必一己之取計ニ及フモノハ厳罰アルヘキ事」にかかっていたとも考えられる。もちろん島問題だけではなく、一月十七日より六月二十一日の長期在京の東久世は、樺太移管、職員改正、函館会所移管、開拓使財政、それに新たに起こった開拓使民部省合併案等々の問題にも対処していた。