日露の樺太問題に関し最も早く反応をみせたのは、先述したように(本章一節)イギリスであったが、公使パークスは日本の対露自重策を支持し、また樺太の買収もしくは交換を示唆していた(日本外交文書 二)。
二年十月十日にフランスの日本公務弁理職モンブラン伯は、日本政府の諮問に対し、樺太におけるロシアの状勢は朝鮮より日本まで侵略する意図を持ち、これは欧州にも重大な関係を有するものゆえ、日本政府は仏・英政府に依頼して、ロシア政府に対し公法をもって議論を起こすより外なく、他面日本は軍備の増強を以て備うる要あり、と回答してきた(日露交渉史)。
さらにアメリカは、二年十一月九日、在日米国公使デ・ロングより、最近日本が北地に官民を派遣したのは、函館の情報によると、ロシア軍隊に対する抗敵行為の準備との説があるとして、その真相を質してきた。それに対して十五日日本政府は、開拓目的の移住であるとして戦争説を否定した(同前)。
以上のような国内・国外の論議の高まる中で、三年一月五日函泊においてさらに大きな事件が発生した。それはロシアが同地に埠頭の築造を開始し、それを阻止した川島権大録ら六人を捕縛幽囚するという事件であった。ここに政府も樺太問題の早急の決着を求めて、三年二月十四日その交渉の斡旋をアメリカに依頼することとした。
アメリカに依頼した理由は、日露両国とも互いに公使の駐箚がなく直接交渉が不可能であること、アメリカはロシアと懇親の間柄であり、また米国捕鯨船が樺太に来往することがあって関係を有すること、さらに日米条約第二条に、日本と欧州の国との間に問題が生じた時アメリカが和平の斡旋をなすとの条項があること、などにあった。そして日本政府はその交渉の斡旋を依頼するに当たって日本側の基本的条件を示した。それは北緯五〇度をもって日露の境界とするという、国境画定案であった。ただこの交渉に関しては、アメリカからなんらの回答がもたらせない内に、同年十月在清露国代理公使ビュッツォフが来日した。そしてアメリカへ依頼することなく、両国での直接交渉との提案があり、日本政府もここにアメリカへの斡旋依頼を打ち切り、ロシアとの直接交渉に切り替えたのである。