ところで樺太専務の開拓次官となった黒田は、七月十九日樺太出張を命ぜられ、特に「全権ヲ以テ臨機処分可有之事」(公文録 樺太開拓使伺)と指令され、八月十三日に品川を出帆した。八月二十三日久春古丹に着いた黒田は、二十六日付で大久保に「丸山、谷元等見込は無理は無御座、是れ迄思込たる上ナレトモ魯人振舞実ニ難堪事もあり、我輩一擘ヲ振ッテ追攘攘ハ見安き事、此の全島のミなら只今訳も無之候得共、内外慮ツテ前途ヲ思ヘハ全く見込付ス切歯罷在、御内政御斉治之期ヲ楽んて相待居候ニ付、小生心情御諒察可被下候」と報じている(大久保関係文書 三)。黒田は現地において特に「臨機処分」にまで至らなかったが、十月二十日帰京して早速北地問題について建議をなした。
この建議の内容は多岐にわたるが、北地問題に関してみると、現今の情勢から日本は樺太を三年しか保持できないであろうと前提し、それが対応策として石狩に鎮府を置いて全道を総括し、大臣をその総轄に任命し、地勢に応じて県を置き、北海道・樺太の歳額を一五〇万両とし、樺太開拓使も石狩鎮府の管轄とし、諸藩の分領をやめて政府の一円支配とする、等の諸策を挙げ、そしてこれらの実行によって「北門ノ鎖鑰始めて固カラン」と述べている。このような施策の背景には、現地で圧倒的なロシアの体制を目にして、この大国に対応するには局地的戦術などではなく、根本的に「内政ヲ斉理シ基礎ヲ固フシ、国力ヲ充実シテ富強ヲ十年ニ期ス」べきとの黒田の認識があった(公文録 樺太開拓使伺)。そしてこの認識を基盤とした黒田の構想と行動によって、以降北海道の開拓方針は大きく転換し、またそれに伴い札幌建府も前進していくのである。