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札幌の役所の整備

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 島判官上京後、札幌の経営を一時的に任されたのが、函館から派遣された岩村判官であり、実務的には島判官のもとで金穀掛を担当していた大主典十文字龍助であった。二月二十三日函館を出発した岩村判官(旧開拓使会計書類 道文六四八二)は、途中諸場所の状態を調査した後、三月七日頃には小樽へ到着し、その後小樽仮役所を開設して執務を始めた。なお小樽仮役所の開設は従来四月となっている(開拓使事業報告)が、函館での村山次郎らへの小樽赴任の指令は二月から行われ(北海道史料 府県史料 国公文)、三月初めには小樽で執務を始めている(岩村判官在職中往復綴込 道文一九二)。村山の辞令は新たに管轄地となった小樽郡の詰合の決定とも解釈できるが、三月中にはすでに札幌からの公文書を岩村判官へ取り次いでいる。着任後すぐ岩村判官は十文字大主典等札幌詰の下僚から報告をうけた(十文字龍助関係文書 日記 市史 第六巻)。その報告に基づいて岩村判官は四月札幌の役所について次のような指示を出した。
先頃出張之節相達候通、役邸之内一軒当分役所と相定、日々役員出張掛エ之御用向可相弁事
 但し病気等にて無断出勤不致向も有之候ハヽ勤惰取調可届出事
 役所出勤中は勿論或は御用向ニ差障候節飲酒等禁止之事
 諸掛分課スト雖モ猶同心協力心附廉等無私意申合御用向可取扱事
 万事伺之上所置致候ては遷延失其機御用弁相成兼候義も可有之候条、小事件は臨機取計之上可相届、尤大事は総テ伺之上可取計事
 今般移住民相廻候付宛行之義一日一人米五合金一朱ニ取究候条得其意差配方等万端至当之処置可有之事
右之件々相達候条詰合一同エも申含可然可被取計候也
(岩村判官在職中往復綴込 道文一九一)

 この文面から当時の役所内の仕事の様子が想像できる。まず札幌に役所といわれるような施設がなかったことがわかる。そのためか役員の出勤状態を把握すること。第二に、当然であるが仕事中の禁酒。第三に、役員同志の協力関係について。第四は、当時一般的であった大事小事の区別の再確認である。最後に移民の処置についてである。
 この時に、どこの建物を役所にしたのかは明確な史料はない。昔話では島判官在任中に使用していた建物(一番小屋とか一番役宅と呼ばれていた)を集議所または集議局とよんで役所としていたようである。『御金遣払帖』にも集議局小使への給与を支払っていることを示しているので、島判官の居宅であったかどうかの確認はできないが、集議局という施設があったことは確認できる。しかし岩村判官は、集議局を役所とは考えなかったことになる。それで別に開拓使の官員が集まって公的な仕事をする役所を設定するように指令したのである。十文字大主典等札幌詰が、すぐに対応して役所を設置したかは確認できない。しかし閏十月十五日に旧大主典邸を官庁にしたという報告を小樽庶務掛にしている。そして役所規則をつくり、少主典以下一人ずつ、手代小遣一人ずつ当番泊番を置くなどのことも報告している。泊番心得については小樽郡出張所規則に習いたいと申し入れている(小樽往復 道図)。役所の設定が遅れたのは、まだ役宅を建設している最中で、札幌に役宅が少なかったためであろう。この役所の位置は、大主典邸であること、役所としての広さも兼ね備えているであろうことを推測すると、後に創成通第一号邸(北三東一、約九〇坪)と呼ばれる官邸であろうか。