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札幌の人員削減

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 岩村判官は小樽仮役所を開設し、五月急用のため巡見を終えたとして函館へ帰還した(御金遣払帖、十文字日記)。札幌では十文字大主典が主任官として、十一月の西村権監事着任までの間札幌を経営した。その十文字大主典は、三月末には次のように指摘して人員削減を建言した。
当地大工木挽き人足共減らし方見込此の程平山大主典より申上置候赴(ママ)を以、於当時勇払より廻米之残高等を以篤ト取調候処、尚格別減方不致候はてハ、第一飯米ニ差支候儀ニ付、当月晦日を限りといたし減方可致ニ付ては、凡至急金三千両下渡不申候はては難相成候間、右金早急御廻し被下げ度候
(岩村判官在職中往復綴込 道文一九一)

 不足している食料対策のための人員削減である。これは工事の進行の問題よりも札幌の食料不足の問題を優先させなければならない現実があったためである。特に三月上旬以降、岩村判官の指示で新規工事の着工を控えていたから、職人人足たちは文字通りの飯食い虫となっていたであろう。十文字大主典は三月二十八日に、二通の書簡で小樽へ建言している。この人員削減は十文字大主典の考えであると同時に、岩村判官の方針ともなっていた。
 そのため、四月はじめ盛岡藩から募集した大工一五人と同じく木挽二五人を小樽から樺太へゆく船に乗せた。ところが中止指令を出していた移民が四月五日から小樽港に到着し始めた。あわてた開拓使は、会津降伏人の移住のために石狩で兵部省に雇われていた木挽を調達することにした。しかしその木挽はすでに御用済となって帰郷していた。そのため移民の中からその関係のものを雇うことと、札幌や小樽で雇うことを許可する指令が、小樽の岩村判官からきている(同前)。