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領主の拒絶と開拓使支配

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 移住許可の指令を得た坂本平九郎らは、白石の片倉、亘理・岩出山の両伊達の領主と家臣が主従ともに「北地跋渉(ばっしよう)」することにならい、伊達邦寧にも同行を求めた。ところが邦寧の拒絶にあい、彼らの「北地跋渉」は第一歩で大きくつまづき挫折した。指令を得て間もなくの翌三年春、邦寧から吉田種穂にあてた書簡によると、「過日坂元平九郎、高橋浪華之助等川内(せんだい)之邸ニ来訪シ、彼レ意想ヲ演テ曰、予ヲシテ臣等ト共ニ北海道ニ移住シ、該地開墾ノ主宰タラ令メン事ヲ頻ニ勧メ」たという(留守氏家譜)。北海道に支配地を得て、主従ともに伊達家の再興をはかろうとしたのであろうが、邦寧は健康上の理由、開墾地は国もとの胆沢郡内にも所在していることをあげ、彼らと共に移住することを断っている。邦寧の拒絶は、移住経費や同志の〝求心性〟の点で様々な問題を投げかけることになる。
 旧主の同意を得られなかったものの、彼らは独自に移住の準備を進めた。まず三年三月に高橋陸郎藤田源四郎行方丹治の三人が函館に到着している(諸届留 道文二〇七)。函館では開拓使と種々折衝をもったようであるが、その際問題となったのは彼らの身分であった。彼らは伊達将一郎(邦寧)旧家臣という肩書ではあるが、邦寧が「開墾ノ主宰」とならないために、「何レノ藩名モ無之、天下浮浪之徒ニ等シク名分判然不仕」(諸願伺留 道文二〇五)る状態であった。また、自費移住を出願したが旧主の協力が得られないために、莫大な移住費用を支弁する目途もたたなかったであろう。それを開拓使に仰ぐ意味もあって、四月十二日に彼らは開拓使に身分が所属する「開拓使支配」とされた。これ以降は、「諸願達を始、総て伊達将一郎旧家臣を相廃、開拓使支配と肩書を相扱」(諸届留 道文二〇七)うようになり、移住志願者九一人が「開拓使支配」に編入された。
 「開拓使支配」の名称が適用されたのは邦寧の旧家臣のみであったが、七月に開拓使より「脱剣可仕由」が達せられた。これは彼らの身分を士族から平民に移すと同時に、北海道の開拓と守衛を移住目的にしていたものを、守衛を除去し開拓のみに限定しようとする開拓使の意図であったものと思われる。これに対し「士体不失様の御処置」を請願しているが、受け入れられなかったようである。この士族身分の剥奪が、さらに移住志願者を減少させることになった。