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戊辰戦争と仙台藩

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 戊辰戦争に際し仙台藩は、会津・鶴岡(庄内)・盛岡(南部)の諸藩と共に奥羽列藩同盟を結成し、新政府に対峙した。その結果、戦役後には過酷な処分がまっていた。一時没収された領地は、明治元年十二月七日に二八万石と定められ、これまでの六二万石から大きく減封された。宇田・刈田(かつた)・伊具(いぐ)・亘理(わたり)・柴田の五郡(現在の宮城県南部)は、削られて盛岡藩の転封地とされた。北部地域も没収されて、宇都宮・高崎など五藩の取締地になった。このため、没収された地域に居住し、館(たて)・要害を構え地方知行(ぢかたちぎよう)をおこなっていた館主などは給地を失い、家臣も一挙に無禄に転じていった。このような動向の中で、家臣団の北海道移住が画策されていく。先述の伊達邦寧の家臣団による平岸移住もそのひとつであったが、ここで改めて旧仙台藩の館主と家臣団による移住問題をまとめておくことにしよう。
 仙台藩が二八万石に減封され、のちに北海道へ移住する館主の中で、①二万三八五三石をもつ伊達氏(亘理郡小堤)、②一万四六四三石の同じく伊達氏(玉造郡岩出山)、③一万八〇〇〇石の片倉氏(刈田郡白石)などは六五石しか支給されなかった。その結果、①一三六二戸七八五四人、②七三六戸、③一四〇二戸の家臣を扶持することが不可能となった。そこで仙台藩では、無禄となった家臣(藩主からみれば間接的な家臣──陪臣(ばいしん)となる)を帰農させる方針をとったのである。
 しかし帰農は、武士の身分を捨て百姓身分となることであり、武士の誇りである名字帯刀を捨てざるを得なかった。さらに南部の地域は盛岡藩の新領地となっており、他藩の百姓となることは耐えがたいことでもあった。これまでの武士身分を維持し、しかも君主との主従関係を保っていく方策が苦慮される中で、北海道への移住案が浮上してきたのである。