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幌別への移住

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 胆振国幌別郡の支配を認められた片倉家では、早速移住の準備にとりかかった。当時、片倉家の家臣のうち約半数にあたる六五一戸、三六〇〇人程が「北海道開拓志願之徒」(奥羽盛衰見聞誌 下巻)であったという。まず移住地の調査のために、邦憲の子景範(かげのり)が小島久・本沢直養・斎藤良知を率い、十月から十二月にかけ渡道している。そして翌三年六月に第一次の移民二一戸六七人が幌別に向けて送り出され、四年三月に第二次の四五戸一一七人が移住した(ふるさと登別 上巻)。彼らが入植したのは現在の登別市幌別及び室蘭市鷲別(わしべつ)の地域である。
 第一・二次あわせて六六戸一八四人が移住したものの、当初の計画人員のわずか一割ほどであった。計画は遅々として進展していない。しかしこれには理由があった。北地跋渉はすべて自費による移住と開拓であり、厖大な経費を必要としていた。片倉家や家臣にそれだけの費用を負担し得るだけの財力がなかったのである。その費用の捻出に苦慮していたが、三年五月に按察使の斡旋により同府の御用達商人から三〇〇〇両の借金をしたり、また十月には白石城が邦憲に返還となり、建物は解体され一五〇両ほどで売却されたようである(白石城解体のいきさつ)。

写真-15 白石城の絵図
移住費用捻出のため解体・売却された(部分,白石市教育委員会提供)

 移住にむけ待機する家臣たちも、無禄の身であり生活の窮乏にあえいでいた。三年一月に旧臣の手作分として五一七貫余の田畑耕作を出願したりしている。うち続いた戦役や、先の明治二年は凶作にみまわれ、物価騰貴もかさなり窮状はおおうべくもなかった。ましてや移住など不可能であった。これを打開するためにとられたのが、開拓使貫属への編入である。