開拓使東京出張所は三年閏十月に設置されて以来存続していたが、この出張所は本来、主として開拓使と中央政府あるいは本土の官民の諸機関との間の連絡調整に当たる機関であった。開拓使分局章程においても「判官幹事ヲ以テ事務ヲ理シ、必本庁ニ稟議シテ之ヲ処分シ、其定例成規アル者ハ便宜施行ス」(開拓使布令録 明治八年達書)と、他の諸局と同様に事務処理には本庁稟議を前提としており、特別の権限を有するものではなかった。
他方、長官は開拓使職制章程で「本使ノ官員ヲ統率シ、使中一切ノ事務ヲ総判シ、所管ノ土地ヲ開拓シ、人民繁殖警備勧業等ノ事ヲ掌ル」、また次官は「長官ノ職掌ヲ輔ケ、長官事故アル時ハ一切ノ事務ヲ代理スルヲ得」と規定されていた(開拓使公文鈔録 明治八年制旨)。ところが黒田次官は当初より政権の中枢に関与しており、特に七年八月二日には参議を本務とする兼任開拓長官となり、紛争・混迷する政府部内での活動をさらに余儀なくされていた。したがって終始黒田はほとんど東京に在り、いきおい開拓使東京出張所において開拓業務を指揮していた。
このような状況のため、札幌本庁ではその使命である開拓業務を総括できず、また地域担当の支庁やその他の下部機関も、本庁を経由せずして東京出張所との直接交渉に利便性を求め、事務の停滞混乱が生ずる要因となっていた。そのため、長(次)官に権力が集中していたこととあいまって、早くから岩村・松本の意見にも見られるように、開拓使内部で長(次)官不在に対する強い批判があった。また外部においても、例えば七年一月十四日付の横浜新聞『ジャパン・ガゼット』において、開拓使に対する多くの批判が掲載されたが、その中で公然と「開拓使ノ長官東京ニ来リ、他ノ府県知事ノ如ク屢ナラサルハ如何」との一条が挙げられていた(公文録 開拓使伺)。このような状況で、開拓使内外において、東京出張所をもって本庁とみなす風潮が一般化されており、それは開拓使の廃止まで継続されていたのである。